観覧車




都会の喧騒は消え失せ、私の行く手を阻むものは何もない。
「ありがとう神撫町、こんにちは西町」
こんな看板もいつの間にか姿を消していた。
明日になれば合併され、消える私の生まれ故郷。
捨てられた遠い時間。
そして私は最後の悪あがきに、自分の分身を拾いにいく。

蔦に隠れた秘密の入り口。
その先には忘れ去られたかつてのパラダイスがあった。

観覧車へと伸びる階段を上る。
手摺はこんな赤ではなかった。
掴むとざらりとした嫌な感触。
赤く染まった手の平。
舐めれば当たり前のように血の味がした。
鉄錆。奥歯にじゃりりと響く、懐かしい味。
初めて逆上がりができた日のことを思い出した。あの日回転したのは私の方だった。

むせかえるような雨の匂いがたちこめる。
夕立は止み、ところどころ陥没した金属板に水たまりができていた。
子供が笑う。
母親が叱る。
メリーゴーラウンド。
迷子の呼び出しアナウンス。
聞こえるはずのない音達。
蝉の声すらここにはない。
これは本当に水たまりだろうか。
つつけば水面ははじけとび、音と時間を吐き出すのではないか。
しかし、映るのは白髪頭の私の顔と、背後にそびえ立つ巨大な観覧車。
並んだ。
ここは、観覧車を待つ列の最後尾。
私はここで綾子の手を握って、左手では百円玉を転がしていたのだ。

上りきったところで私は彼と再会した。
ゴンドラはもうぶら下がることさえ危うい。
いつ、引きちぎられるのだろうか。私の好奇心を煽り立てる。

ドアはひしゃげ、腐食してあいた穴。
何度も塗り直したペンキ。
窓ガラスは割れ、風が我が物顔で通り抜ける。

こんな赤ではなかった。
錆びあがった楽園のシンボル。夢の跡。
観覧車が回ることをやめてから、早三十年。
とり壊すことさえ億劫になったのか、死してもなお彼はここに立ち続ける。
そうして世界を見てきたのだ。
高くなっていく高層ビルと、堕ちてゆく街々。
眼下に広がるおびただしい数の人間の生き様。
かつて見た夢がかくもむなしく壊されていくことを憂え、彼は幾度涙を流したことだろう。

しかし、おお、
彼は私が思っていたほどひ弱な鉄骨ではなかった。

彼が懐に宿した小さな命と対峙したのだ。

私とそう年の変わらない老人だった。
何色だったかもわからない上着には穴があき、灰色の肘が覗く。
観覧車の一番下のゴンドラの、座席の上に横たわっていた。
私と目が合うと老人は何か言いた気に口をぱくぱくと動かし、震えた左手が小鍋を下に落とした。
老人の顔はあどけなく、赤ん坊か金魚のようだと思った。
これから夜が来る。
老人は足元の毛布をかぶり直そうと、ゆっくり上体を起こす。
老人が身じろいだ、その瞬間。
座席の赤い布は老人に引きずられてめくれ、だらしなく垂れ下がった。
そして、ゴンドラが揺れた。
観覧車がわずかに震えた。

小さな命がかすかに吐息を震わせた。
揺れているのは赤い心臓。
朽ち果てた観覧車の鼓動。
生きてきたという誇りをかかげ、遠くをしかと見つめて。
何という堂々たる存在感、高らかな雄叫び。

私が捨てた未来を、おまえはまだ見続けるというのか。
その肉体はとうの昔に滅んだというのに。

これから街は眠りにつく。
夜が明ければこの街はなくなる。
この遊園地の名にも入った、この街は消えるのだ。
それでも見続けるというのか。
夕日が眩しくて、おまえの姿が見えないけれど。

風が吹いた。
強い風は頂上のゴンドラを揺らし、扉を開ける。
やぶれた赤が焼けた空にはためいた。

勝利の真紅の旗である。血潮の通った、勝利の証である。

ブラボー。誰かが叫んだ。
私だったかもしれない。