トマト




猫が仏壇からトマトを落とした。
熟れ過ぎたトマトは踊り場を転がって下へ落ちた。
潰れた。
赤く染まった床。私もトマトを握った。

熟れ過ぎたトマトはただ柔らかく、感触すらろくにない。しなびてよった皮の皺は、私の親指にしっくりと馴染む。

テレビで見た都会の風景が、雑誌で見たカラー写真が、新聞で見た一面の記事が、私の脳裏をかすめていく。新聞を開く度、ニュースを聞く度、景色を染め上げる事件、事件、事件。
理不尽に増えていく死体。イカれた奴ら。
殺人狂は何処に? ここに?そこに?あそこに?
見てもいない死体が私の目の前で溢れ返っている。
嗅いでもいない腐乱臭が私の鼻を刺していく。
殺した奴らは何処にいる?

階段の手摺に体重がかかる。私の手から離れた赤い爆弾は、下へ下へと落下していった。
「ドッカーン」
私の声が、グチャリという音を掻き消した。
たいして大きくもなかった。それでも、床には血溜まりがふたつ。

こんなイカれた奴らばかりの国など、もう長くはない。
それなら、私がこの手で―。

私の手から赤いトマトが二個、三個と滑り落ちていく。その度に狭い家に響く音。
「ドカーン」「ドカーン」グチャリ、グチャリ

猫はのんきにニャーと鳴いた。私は階段を下りていく。

元々くずれかかっていたようなトマトは潰れてもそれほど見苦しい姿はとらず、ただルビィのようなゼリーは光沢を失って散乱しているといった状態。掴んで口に入れればそこにうるおいはなく酸味もなく、ただ腑の抜けたような甘さと粉のような舌触りが何の刺激もなく歯の間をぬけていくといった感触。
私は、トマトを噛み締めた。

彼女は赤いワンピースが良く似合った。家には大きなトマト畑があって。そう、うちのなんかよりずっとずっと大きな。
彼女はそこで死んだ。暑い夏の日、終戦も近かったというのに。 ワンピースの色なのか、潰れたトマトの色なのか、それとも血の色だったのか、それさえもわからなかった。
彼女を殺したのは あいつらだ。

「お母さん、おじいちゃんが―」
孫が青い顔をして逃げていった。

孫よ何故逃げる。怖いのか。私の何が怖いというのだ。何故泣くのだ。
病院だと?ふざけるな。私は正常だ 至って正常だ。おかしいのはお前らの方だ。狂っている。どうしてこんな時代で どうしてこんな世の中で 正常でいられる お前達が狂っているのだ。

猫はのんきにニャーと泣いた。

私は床を蹴った。そのままはだしで走って、着いた先はトマト畑。小さいけれど、トマト畑。
恐ろしいほど青い空。私は手あたり次第にトマトをもぎ取り、むさぼりついた。
新鮮なトマトは皮がしっかりと張っていて、甘酸っぱさが歯ぐきにしみた。なまぬるいゼリーがのどを滑り落ちる。

頭の中が真っ白になるまで、そうしてトマトにかぶりついていた。