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空と海との境目に小さな点が現れた。
目を凝らして目印の赤い旗を探す。
「船が帰ってきたぞーっ。」
コタはそう叫びながら村の家々の間をぬって走った。
イヨの家の前まで来ると用心深く戸を叩く。
「オホロの船に間違いないのね?今朝出て行った漁船じゃ嫌よ。」
「間違いないよ。ワダツミの赤い旗だもん。」
長い髪も結いかけで飛び出してきたイヨは、コタの頭を撫でると白い貝殻を2枚くれた。
「お駄賃よ。あんたの眼は本当に役に立つわ。」
そう言うと、イヨは髪を結い直すためにまた奥へひっこんだ。
背丈と変わらない程の長い長い黒髪が揺れる。
オホロでなくても、コタのような子供の眼にも、イヨは美しかった。
港の方には、コタの知らせを聞きつけた島民達が群がり始めていた。

十年に一度本土へ向かう定期船が、百日の滞在を終えて、今日島に帰還した。
祝いの席でもオホロは持ち帰った奇妙な品々を披露していたが、この島ではとても役に立つとは思えない。 「オホロ、そんな物より、次イヨが踊るよ。」
焚火の赤い炎に照らされた夕闇の中に、長い髪をきっちりと結い上げたイヨが現れた。
集まった島民達の前でお辞儀をする。
かんざしがしゃらんと小気味好い音を立てた。
左手で帯を押さえ、右手で扇子を引き抜く。
ぱたぱたと音を立てて現れるは赤いワダツミの姿。
「イヨを娶ろうと思ってるんだ。定期船の仕事も無事に終わったことだし。」
「いいんじゃない。イヨも、待つのはもう嫌だって言ってたよ。」
オホロは小さく頷いた。 「式は本土で挙げようか。びっくりするぞ。
本土の文明は十年前に聞いた話から、また比べ物にならない程進歩してる。」
「この島だってここ百日で発展したよ。もう物々交換やってる店なんてないし。」
「そんなもんじゃないよ。まず本土では貝殻なんて使わない。・・・そうだな・・・そう、最近じゃ他の国にいる奴と、こんな小さな機械で顔を見ながら会話できる。」
「いらないよ。僕らはワダツミと話せる。」 「お前は相変わらず強情だな。」
オホロは椀の酒を一気に飲み干した。
「コタ、お前はこの島がそんなに好きか。」
「オホロは嫌いなの。」
「そうじゃないが・・・。なにしろ本土は良いぞ。お前も次の定期船には乗るだろうが、その前に是非本土を見せてやりたい。」
「僕は舟大工になるんだ。定期船には乗らない。」
オホロがまた酒を注いだ。
コタはいたたまれなくなってそれを拒んだ。
「やめなよ、そんなの飲むの。」
「大丈夫だよ。酒には強いんだ。」
「違う、それ。」
無色の液体がコタを睨む。
得体の知れない不安。
「きらきら光ってる。」
「きらきら光ってる?お前にはそう見えるのか?」
オホロは小馬鹿にしたように酒瓶を覗き込んだ。
「裏山から湧き出した水で作った酒だからな。
あの、ワダツミを祀ってる。縁起が良いじゃないか。」
そう言って、また飲んだ。
「お前の眼も不思議だな。でも、眼が良すぎるのも考えものだ。」
コタはオホロから眼を逸らした。
「光ってるのが駄目なら、本土で暮らすのは難しいぞ。夜でもネオンサインが光って、街中お祭り騒ぎなんだからな。」
聞き慣れない外来語を並べながら、オホロは得意気に話す。
少し酔っているようで、赤ら顔のオホロの声はコタには耳障りだった。
「それに、本土ならば例の奇病も治せるかもしれない。」
例の奇病とは、この島で数ヶ月前から流行り始めた原因不明の死病のことだ。
オホロが留守の間にも、コタは祈祷の踊りの為に出かけるイヨと一緒に、十もの患者を見た。そして、十の死に際を見た。
最初に眼が見えなくなり、次に耳が聞こえなくなる。その孤独と死への恐怖で狂ったようになり、宙を掻きむしりながらわけのわからない言葉を叫んで死んでいくのだ。
若い男に多かったから、過労が原因だと言われていた。こんなちっぽけな島では、それ以上はわからなかった。
「本土は医療技術も素晴らしいぞ。腹を切らずに中が簡単に見られるんだ。」
酒には強いと言っておきながら、次第に呂律が回らなくなってきた。
オホロはまたわけのわからない片仮名を並べ、万歳と叫び、両手を空に突き上げた。
ちょうど踊り終えたイヨはそんなオホロを見、微笑んで、観客にお辞儀をした。
かんざしがしゃらんと小気味好い音を立てた。

その後三日間、オホロ達の宴会は開かれていたが、コタは出席しなかったので、正常なオホロを見たのはこの日が最後だった。