水 中 散 策

一:卵の殻と鯉子のナレノハテ



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本当に通りたくないのならば、降りずにすむ駅である。
環状線は黙っていてもふたつ先の駅まで送ってくれるし、そこで乗り換えれば時間的にも大した差はない。
それなのにあえて新宿の街を通るのは、切符代が少しだけうくのと、あとは鯉子のただのマゾ。
雑踏を間近に見て打ちのめされた気分になるのが好きらしい。
私もつられていつの間にか、この街を通るのがくせになった。  

この季節だからそれだけでも太陽はぎらぎらしているのに、ビル群と人混みが暑さを煽る。
見上げれば吸い込まれそうで、視界はメリーゴーラウンドだ。
「鯉子。」
私がいつもぼうとしているから、大抵は鯉子が前で私が後ろを歩く。
後を追いかける形になるのだ。
「何だったの、さっきのメール。」
「ああ、あれ。グループ課題の打ち合わせ。」
鯉子は相変わらず私の方は振り向かずに、素っ気ない。  

鯉子のいた最後の夏。
私はそんなフレーズを頭に浮かべながら、いつもと同じ通学路を歩いた。
雨の日以外は大抵通っているこの道。
摂氏三十三度、湿度八十パーセント。
アスファルトの照り返しで体感温度はもう少し高い。
ビルは多いくせに影は少なく、風と呼べるものだって所詮は立ちのぼる熱気だ。
無風状態の新宿はむっとしていてサウナのような状態。
何かを期待しているわけではなかったが、ここを通るたびに何故か、人混みに飲まれ胃酸で溶けていくような虚脱感を覚える。
この暑さがおさまる頃には、私の半身も溶けて消えていることだろう。  

もうすぐ私達の誕生日。
十五になる前に鯉子は死ぬ。
おとぎ話のような、鯉子らしい戯言だった。
その馬鹿げた予言を鵜呑みにしている私も相当イカれている。
しかし、鯉子は今まで十四年間、嘘はついたことがない。
何で死ぬのか、理由を教えてくれたことは一度もなかった。
けれど、嘘をつかない鯉子が何年も前から言い続けている。
昔からの呪文のように刷り込まれ、私は今でも予言を信じ、その時を意識して構えているのだ。
明日遠足があるんだとか、今日プレゼントが届くんだとか、そういうワクワクであるはずはないのだけれど。
鯉子自身も確かに、その瞬間を待っている。  

巨大な陸橋の影に入ると、暑さは幾分ましになった。
ほんの一瞬だが、私はここをオアシスと思うことにしている。
湿った空気が肌にまとわりつき、それでいて気温は生ぬるい。
そんなとき、私は間違いなく水の中にいる。
陸橋の巨体が太陽光を遮った瞬間、小魚達がどこからともなく現れ、私のまわりを回遊し始めた。
私は彼等のほんのり冷たい体に一匹ずつ触れ、泡を吐くように声を掛けてやるのだ。
こんな私を。
皆はキチガイと言い、ある人は冷笑し、ある人はそっと遠くを歩いた。
ある人は異常なまでの興味を示した。
自分でもわかっている。
人が普通に持って生まれたものも知らず、見えないものを見たと言っては騒ぐ。

「ねぇ、あの人、人殺しそうじゃない?」
「マジで?どこ、どこ。」
「絶対出刃包丁とか持ってそう。」  
見れば有名塾の鞄を背負った小学生が、陸橋の手すりから身を乗り出してコンビニの入口を指さしていた。
「でも、ああいう『いかにも』って人じゃつまんないじゃん。やっぱ子供が殺さないと騒がれないよ。」
「小学生、小学生。あ、小学生じゃ駄目だ。幼稚園!」
「生まれたての赤ん坊が殺人したら最強だよ。」
「それ最っ強。」  

愉快そうに笑う。
彼等にとってそれは適刺激、むしろ心地良いのだ。
二十年後の大人達はこの街でたくましく育っていく。

私も身を乗り出して陸橋の下を覗いてみた。
噂の男はコンビニの前で行ったり来たりを繰り返している。
みすぼらしい服に、白髪だらけの頭。
ホームレスだろうか。
その挙動はあまりに不審で、通行人は皆彼を避けるようにして通っていった。  





いきなり空が暗くなった。
何度も体験している、肌で良く知っているこの感覚。
そのときだけは風も止んで、目で空気の流れが掴めるようになるのだ。
ぬめりを伴う湿った風が吹き、視界中に塵埃を舞い上げる。  

いつものように空をふさぐエイの群れ。
水族館にいるようなちっぽけなのではなく、このエイは新宿を飲み込むビッグサイズだ。
そして空を飛ぶ。
またか、というカオをして、エイは私を見下ろした。

そして今鯉子が立っていた場所に子供が現れた。
身長は私の腰くらいまで。
まっすぐに切り揃えた前髪。
私に似ず、賢そうな。
小さな、私の小さな妹だ。

久しぶりだね、大きくなった?
私はこの子供に声をかけた。

この時間が大切だった。
私が外と完全に隔離される瞬間。
もう私に冷ややかな視線を注ぐ人の姿さえ、目には映らない。
私はまるで淡い糸を紡ぐかのように、鮎水といる時間を愛おしんだ。


 



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