水 中 散 策

一:卵の殻と鯉子のナレノハテ



2
鮎水は手遊びをしながらニコニコして、私の話を聞いていていた。
決して私を無視したり、ましてや馬鹿にしたりなんてしない。
鮎水は良い子だもの。
一度だって私を否定したことなどないし、私が頭をなでればそれは十分すぎる報酬であるかのように喜ぶ。
今だって全部知っているような素振りを見せながらもじっと黙り、ただ聞いているだけで私の存在を支えてくれている。

その日は珍しく、鮎水の方から積極的に話しかけてきた。
「ダイビングってスポーツ知ってる?」
「知ってるよ。何、興味あるの。海に潜るやつでしょ。あ、それともスカイダイビング?」
そう尋ねると、鮎水はきょとんとした顔で聞き返した。
「それって、どう違うの。」
「スカイダイビングは海じゃなくって、空を飛ぶの。」
「だから、それがどう違うの。」
「どうって、全然違うじゃない。」
ふぅん、と鮎水はまだ納得のいかないような顔をしていた。
「じゃあ、これはどっち?」
そう言うと鮎水はくるりと後ろを向き、いきなり陸橋の手すりをくぐって飛び降りた。
私の目の前でザブンという音がし、水しぶきがあがった。
鮎水が下の道路へ落ちていく。

「鮎水っ!」
鯉子が振り向いた。
こんなところで、と私の手を掴む。
「今、あゆみがっ、とびおりてっ。」  
私は目が回ったまま、鮎水が落ちていった方に陸橋を駆け降りた。

「馬鹿、魚子。」  
一番下まで降りて振り返ると、鯉子が追いかけてきていた。
そのすぐ後ろに車のヘッドライトが見える。

ふと我に返った。
同時に、鯉子の声が頭の奥から聞こえてきた。
「私、死ぬんだぁ。」
何度となく聞いた言葉。  

ああ、そうか。
結局、鯉子を殺すのは自分だったのだ。  

車の気配に鯉子が振り向いた。
今日は曇りだったから、こんな時間でもライトがやけに明るい。
ゆっくりと流れていく視界の中で、だんだんとライトが近づき、鯉子の後ろ姿が黒くなっていく。
救急車が先か。
警察を呼んだ方が良いのかな。
でもあの車の人が良い人だったら、鯉子を病院まで乗っけてってくれるかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、目を閉じた。

バチャッという音がして、顔に液体がかかった。
鯉子の血だ、と思い、私は目をつむったまま尻餅をついた。





「この馬鹿!クリーニング代、あんたが出しなさいよね。」  
鯉子はスカートの裾を指でつまみ上げ、パタパタと左右に振った。
鯉子の制服の下半分に泥がはねていた。
ティッシュで気休め程度に拭き取る。
スカートはまだましで、家に着くころには乾いて泥も剥がれそうだった。ただ、
靴下はちょっと重症である。
私も液体がかかった部分を手の甲で拭った。
砂っぽいザラザラした感覚と、茶色い泥水がついていた。  

考えてみれば当然なのだが、陸橋の下はただの歩道で、車はすぐ横の道路を走っているだけである。
どちらかが飛び出さない限り衝突することはない。
車がこちらに向かってきたように見えたのは、今日の曇りととっさの錯覚だ。
車は泥水を鯉子にひっかけただけで何事もなく走り去っていった。  

鯉子はなおもぶつぶつ文句を言いながら、前を歩く。
私も恐る恐るその後に付いていった。
電車に乗ってしまえば良いと思う。
こんな日こそ、水たまりだらけの暑い道を歩かずに。
でも鯉子は、脇目で人の流れをちらちらと気にしては一瞬寂しそうな顔を見せ、そしてまた満足げな笑みを浮かべて堂々と歩いていく。  

電車で十分、畑道。
でもこの街は魂まで吸い込まれそうなビル群。
様々な顔をした人たちに紛れて、同じ顔をした鯉子と私はそこを渡る。
たまに指さす人達がいるけれど、そういう時、ふたりで同じ制服を着ていたらもっと面白いだろうにと思う。
でも、実際はほとんどの人は気付かないし、見ていない。見たところで別にどうとも思わない。
同じ顔のはずなのに、何故か鯉子は賢そうで、私は馬鹿っぽく見える気がする。
長い後ろ髪も横に分けた前髪も、本当は私だってそうしたかったのに(そうすればちょっとは利口そうに見えるのに)、見分けがつかないからって昔から変えられなかった。
だから私は鯉子が死んだら、今度こそ髪を伸ばそうかと思うのだ。


 



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