水 中 散 策 一:卵の殻と鯉子のナレノハテ |
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鮎水は手遊びをしながらニコニコして、私の話を聞いていていた。 決して私を無視したり、ましてや馬鹿にしたりなんてしない。 鮎水は良い子だもの。 一度だって私を否定したことなどないし、私が頭をなでればそれは十分すぎる報酬であるかのように喜ぶ。 今だって全部知っているような素振りを見せながらもじっと黙り、ただ聞いているだけで私の存在を支えてくれている。 その日は珍しく、鮎水の方から積極的に話しかけてきた。 「ダイビングってスポーツ知ってる?」 「知ってるよ。何、興味あるの。海に潜るやつでしょ。あ、それともスカイダイビング?」 そう尋ねると、鮎水はきょとんとした顔で聞き返した。 「それって、どう違うの。」 「スカイダイビングは海じゃなくって、空を飛ぶの。」 「だから、それがどう違うの。」 「どうって、全然違うじゃない。」 ふぅん、と鮎水はまだ納得のいかないような顔をしていた。 「じゃあ、これはどっち?」 そう言うと鮎水はくるりと後ろを向き、いきなり陸橋の手すりをくぐって飛び降りた。 私の目の前でザブンという音がし、水しぶきがあがった。 鮎水が下の道路へ落ちていく。 「鮎水っ!」 鯉子が振り向いた。 こんなところで、と私の手を掴む。 「今、あゆみがっ、とびおりてっ。」 私は目が回ったまま、鮎水が落ちていった方に陸橋を駆け降りた。 「馬鹿、魚子。」 一番下まで降りて振り返ると、鯉子が追いかけてきていた。 そのすぐ後ろに車のヘッドライトが見える。 ふと我に返った。 同時に、鯉子の声が頭の奥から聞こえてきた。 「私、死ぬんだぁ。」 何度となく聞いた言葉。 ああ、そうか。 結局、鯉子を殺すのは自分だったのだ。 車の気配に鯉子が振り向いた。 今日は曇りだったから、こんな時間でもライトがやけに明るい。 ゆっくりと流れていく視界の中で、だんだんとライトが近づき、鯉子の後ろ姿が黒くなっていく。 救急車が先か。 警察を呼んだ方が良いのかな。 でもあの車の人が良い人だったら、鯉子を病院まで乗っけてってくれるかもしれない。 そんなことをぼんやり考えながら、目を閉じた。 バチャッという音がして、顔に液体がかかった。 鯉子の血だ、と思い、私は目をつむったまま尻餅をついた。 「この馬鹿!クリーニング代、あんたが出しなさいよね。」 鯉子はスカートの裾を指でつまみ上げ、パタパタと左右に振った。 鯉子の制服の下半分に泥がはねていた。 ティッシュで気休め程度に拭き取る。 スカートはまだましで、家に着くころには乾いて泥も剥がれそうだった。ただ、 靴下はちょっと重症である。 私も液体がかかった部分を手の甲で拭った。 砂っぽいザラザラした感覚と、茶色い泥水がついていた。 考えてみれば当然なのだが、陸橋の下はただの歩道で、車はすぐ横の道路を走っているだけである。 どちらかが飛び出さない限り衝突することはない。 車がこちらに向かってきたように見えたのは、今日の曇りととっさの錯覚だ。 車は泥水を鯉子にひっかけただけで何事もなく走り去っていった。 鯉子はなおもぶつぶつ文句を言いながら、前を歩く。 私も恐る恐るその後に付いていった。 電車に乗ってしまえば良いと思う。 こんな日こそ、水たまりだらけの暑い道を歩かずに。 でも鯉子は、脇目で人の流れをちらちらと気にしては一瞬寂しそうな顔を見せ、そしてまた満足げな笑みを浮かべて堂々と歩いていく。 電車で十分、畑道。 でもこの街は魂まで吸い込まれそうなビル群。 様々な顔をした人たちに紛れて、同じ顔をした鯉子と私はそこを渡る。 たまに指さす人達がいるけれど、そういう時、ふたりで同じ制服を着ていたらもっと面白いだろうにと思う。 でも、実際はほとんどの人は気付かないし、見ていない。見たところで別にどうとも思わない。 同じ顔のはずなのに、何故か鯉子は賢そうで、私は馬鹿っぽく見える気がする。 長い後ろ髪も横に分けた前髪も、本当は私だってそうしたかったのに(そうすればちょっとは利口そうに見えるのに)、見分けがつかないからって昔から変えられなかった。 だから私は鯉子が死んだら、今度こそ髪を伸ばそうかと思うのだ。 |
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