水 中 散 策

一:卵の殻と鯉子のナレノハテ



3
家に着くと鯉子は制服も着替えずに、汚れた靴下をつまんで脱衣所に直行した。
「風呂場で靴下洗うからさ、今日は私が風呂そうじで魚子が夕食ね。」
泥だらけの足で部屋に上がらないように気を付け、器用にかかとで歩いていった。
「いいけど。料理なんかできないよ。」
「知ってるよ。ポットにお湯入ってるから、カップメン作っといて。これだけ洗って、三分したら行く。」  

まあ、鯉子がそう言うなら。
カップメンで良いなら、私にだってお安い御用だ。
確か台所の戸棚の下に大量に入っていたはずだ。
久々に私が夕飯を振舞ってやろう。
さて、鯉子は何味が好きなんだっけ。忘れた。
シーフードだっけ、カレーだっけ。  

戸棚から一番手前にあったカップメンをふたつ引っ張り出すと、冷蔵庫に卵を取りにいった。
卵は、体に良い。
コレステロールがどうのと言われているが、本当は心配する必要などないともいう。
私はいつもカップメンに卵を落とすけれど、鯉子はそれを嫌がる。
私は冷蔵庫から白い球を二個取り出した。
空になったパックをゴミ箱へ放る。
ふたりしかいないのに消費が激しい。
私が鯉子の健康に気を遣ってあげているからだ。
後で買ってこないと、明日の朝食の分がない。  

ぶきっちょな私は未だに卵が綺麗に割れない。
小さい殻の破片が中に入ると鯉子は怒る。
しかし今日は珍しく、ぱっかりとふたつに割れたのだ。
感激しながら白い殻をじっと眺める。
綺麗な白。カルシウム。

私も鯉子も。
ずーっと昔、お腹にいたときにはこんな風に、ひとつの卵の中にいたのに。
いつから違ってしまったのだろう。
しっかり者の鯉子は、いつもお馬鹿な妹のおもり役。  

中身を塩味のカップメンに入れ、もうひとつの卵も割ってカレー味の方に入れた。
今度はやはり失敗した。  





鯉子が遅い。
私が卵の殻に気をとられてぐずぐずしていたから、三分はとっくに過ぎている。
まだ風呂から出てこない。
いつも私のことをグズだトロだといって、麺をのばすと怒るくせに。

「鯉子。」
呼んでみたが返事がない。
バッチャ、バッチャという、あれは水の音だ。
浴槽の中だろうか。
掃除なら後で良いのに。
「麺のびるからね。」
またもや返事がないから、私は先に食べていることにした。
しかし、汁まで飲み干しても、鯉子はまだ帰ってこない。
返事はない。
静かに何かしている。

「鯉子。」
覗きに行って、私はまた憂鬱な気分になった。
またひとり、白昼夢の中。

風呂場の前に小さなエイの子供が立ちふさがっていた。
中を覗こうとすると、ペタリと顔に張り付く。
「何よあんた、どいてよ。」
子エイの腹はアイマスクのようにひんやりとして気持ち良かったが、しっぽの方から剥がして捨てた。
そして中を覗き込んで、ああ、見なければ良かったと、少し後悔した。  

浴槽に張った残り湯は天井にまで跳ねていて、床には洗面器が転がっている。
鯉子は薄暗い中制服のまま浴槽に浸かり、てのひらで水面をたたいていた。
ケタケタ、キャッキャという子供の一人遊びは間違いなくここから広がっている。
こだまのようになった声は、森の奥で何人もの子供が戯れているようにも聞こえた。
鯉子が勢いよく立ち上がると、ぐっしょりと濡れた制服のスカートが肌に張り付いた。
そしてまた湯の中にダイブする。

日のあるうちに入る風呂というのは、風情があって良いと思う。
うちではそういう習慣はないから、結局いつも寝る前に明かりをつけて入る。
でもたまに、違う、もう随分昔だ。
まだ私も鯉子も幼稚園くらいだった頃、プールに行った後はよくふたりで風呂に入った。
風呂場の中はほんのり薄暗く、すりガラスの小さな窓は外の方が明るいのだ。
湯も心なしか夜より温度が低く、空気も時間も日の光も、そのときだけはゆっくりと流れていく。

小さい頃の、夏だけの、ある種のイベントみたいな入浴を。
浴槽の中の鯉子を見て、今やんわりと思い出していた。
ちょうどこんなかんじだった。
グレーっぽい、それでいてものすごく柔らかい色の中で、生ぬるい湯をかき回す感触。

「何してるの鯉子。」  
鯉子はびっしょり濡れた頭をこちらに向けると、にたーっと笑った。
「見て見てっ。」  
排水溝の栓を引っこ抜いた。
シュオッという懐かしい音がして、湯が竜巻のように飲み込まれてゆく。
昔よくやったな。
そのたびに母に怒られた。

「う・ず・ま・きっ。」  
鯉子はキャーッとけたたましく笑って水面を叩いた。
私の制服にもしぶきがはね、黒っぽい染みが広がっていった。


 



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