水 中 散 策

二:海底都市



1
「相続の件でもめてね、思ったよりも長引きそうなのよ。もう少しお留守番できるわよね。」
「うん、大丈夫。うまくやってるよ。」  
電話の向こうで騒ぐ声が聞こえる。
伯父がまた酔っ払っているのだろう。  

鯉子はお気に入りのアニメを見てご機嫌だ。
時々テレビの音声に合わせては、歌ったり叫んだりしている。
「アイアンキーック!」
紫色の風呂敷をマントに見立ててTシャツの襟にはさむと、ソファの上から勢いよく飛び降りた。
「鯉子うるさい!」
「魚子!お姉ちゃんに対して何て口きいてんの。ケンカでもしたの。」
向こうまで行って鯉子の足をひっぱたいてやろうかと思ったけれど、こらえた。
「仲良くしなさいよ。鯉子がいなかったら、あんたろくな食事もとれないんだから。」
「わかってるよ。」
夏休みだからだろうけれど、例のアニメは昼間から三時間も放映している。
他に駄々をこねられるよりはましだが、テレビの間はおとなしくしていてくれる、というわけでもなかった。

「それより、鯉子の具合はもういいの?」
「具合って何が。」
「昨日鯉子から電話があって、貧血おこしてお風呂で倒れたって。知ってるんでしょ。」

やはり、鯉子がおかしくなったように見えているのは、私だけらしい。
鯉子は正常だった。
知らない間に母と連絡もとっていた。
そうか。
鯉子は貧血で倒れたのだ。
それで私が服を着替えさせて、びしょびしょになった風呂場を掃除したのだ。
そういうことになっているのだ。

「じゃあ切るけど、何かあったら携帯に連絡入れなさいよ。あんたはお姉ちゃんに似ずうっかり者だから心配よ。」  
私の心配はいらないよ。
子守もちゃんと出来ている。
むしろこんなになってしまった鯉子の方を心配すべきではないのか。
しかし、言えるはずもなかった。  





一晩寝て次の日になっても、鯉子は子供のままだった。
台所の物音で目が覚めると、鯉子は戸棚からレトルト食品の箱を取り出し並べて遊んでいた。
「しーっ。」
倒されないように私に注意をし、ごく短いドミノを倒しては喜んでいた。
飽きると今度は積み木にして、三段タワーを作った。  

真剣な鯉子と目線を合わせるように座り込んでみた。
鯉子は一瞬こちらを見たが、またすぐにタワー作りに熱中した。
「何作ってんの。」
「観覧車。」
似ても似つかない造型だったが、鯉子はカレーの上にリゾットを積み上げていく。
「お名前、何ていうの。お姉ちゃんに教えてよ。」
「やがわ、こいこ。」  

手元さえ見なければ、鯉子は別に何が変わったわけでもなかった。
私と同じつくりをした横顔は、これでもまだ私より賢そうに見えたりする。
下を向くたびにはらりと落ちる長い前髪と、それを耳の方へ掻き分ける動作も相変わらずだ。
けれど、今日はそれが鬱陶しそうに見える。
むずかっている。
私が憧れた長い前髪。
鯉子が中学に入る頃から伸ばし始めたから私は真似することができなくて、眉毛の下で切るしかなかった。

「鯉子おいで。前髪鬱陶しいでしょ。」
この前髪。綺麗な漆黒。
子供の鯉子には必要もないだろう。
切ってしまおう。  

テレビで前に見た通りに、前髪のラインにセロハンテープを貼り付けていく。
こうすると子供が動いても綺麗に切ることができるのだ。
鯉子は案外おとなしかったが、たまに体をよじらせてはまだ、まぁだとせかす。  

加減というものがわからず、勢いよく切ってしまった。
思ったより短くなったが、最初に失敗したらどうでも良くなって、後の方はすんなりできたと思う。
シャク、シャク、ハサミが鳴り、黒い前髪が束になって落ちていく。
切っている間は嫌でも向き合う形になるわけだが、その間中鯉子はぽかんとした顔で私を眺めていた。

そりゃあ、不思議だろう。
自分と同じ顔。
私だって子供の頃は、この特殊な事態を持て余していた。
自分はふたりいるんじゃないかとか、自分は鯉子の偽者なんじゃないかとか。
うりこ姫の話を読んだときには、鯉子はあまのじゃくが化けてるんじゃないかとか。
それとも自分が実はあまのじゃくで、それすら忘れているんじゃないかとか。
そんなことを考えては少し怖くなって、またコトンと忘れてしまうのだった。  

大雑把に前髪を切り終え、一息ついたところで奇妙なことに気付いた。
切り落とした前髪がない。
周囲に散らばっているはずの、黒い破片が見つからないのだ。

私は首をかしげながらも、また少し、前髪にハサミを入れてみた。
落下していく先を見送る。
髪ははらはらと鯉子の手に落ちた。
すると泡のようにスッと肌に溶け込み、かわりに鯉子の手の甲には深いしわが刻まれたのだ。  

私は夢中になって鯉子の前髪を切り落とした。
触れた箇所にしわが浮き出ていく。
顔も、手も、だんだんと造型が変わっていく。
このくらいかと一旦ハサミを置くと、私は真正面から向かい合った人物の顔を見て、深い息を吐いた。

「こんなことしてないで、さっさと宿題かたしちゃいな。だからあんたはいつまでも、鯉子の後ばっかり追いかけてんだよ。」
さっちゃんは私に向かい、そう言った。


 



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