水 中 散 策

二:海底都市



2
「幸子さん」「母さん」「お義母さん」「幸子」「おばあちゃん」「幸子おばさん」−。  

呼び名があった。
皆思い思いに、相応しい名で彼女を呼んでいた。
それがある日、ほんの一瞬を境に、全部が「さっちゃん」に統一された。  

「さっちゃんはね」。
それがさっちゃんになってからの、さっちゃんの決まり言葉。
しわくちゃの指を折り曲げて薄い唇に当て、すくい上げるように一言一言、ゆっくり紡ぎ出してゆく。

さっちゃんはね、昨日田中のおばちゃんに、こーんな大きな風船もらったのよ。

さっちゃんが吐き出して繋いでいく言葉はどれもしゃぼんのようで、みんな夢を見ているような気分になるのだ。
「こーんな」と発音するときには声は山なりの軌跡を描き、私達の真上から降り注ぐ。
浴びた人は皆知らない国にでも迷いこんだかのような顔をして、一瞬浅い眠りにつくのだ。
結構、たくさんの人が、そうやって現実から逃避したのを知っている。

幸子という人は、それは気の強い女性だった。
親戚の間でも有名な饒舌家だった。
若い頃は大層な美人だった(本人談)らしいが、何しろあまりにも口やかましいので、なかなか嫁のもらい手がつかなかったという。
口げんかでは未だに負け知らず。
八十を超えてなお目の輝きは増し、手当たり次第に相手を捕まえては説教をたれるという、それはそれは嫌なばあさんだった。

私だって何度捕まったか知れない。
昔は良かった、これだから最近の若い子は、聞いてんの、あんたに言ってやってんのよと、それはそれは鉄砲玉のように、息つく暇もなく文句が飛び出してきた。
その勝ち誇った顔が印象的だった。
鯉子だって彼女には太刀打ちできない。
私でどうなるはずの相手ではなかった。
ただ、最後の一回だけは、私が勝った。

さっちゃんはもうあまりにも弱かった。
私がほんの少し叱った。
病院で暴れちゃいけないんだよ、と言った。
さっちゃんは両手を前に突き出したまんまの格好でベッドの上に半身を起こし、わぁわぁ泣いた。
それ以上さっちゃんは何も言わなかった。
最後の一回だけは、私が勝ってしまった。  





前髪を切り終えた鯉子は身も軽くなった様子ではしゃいだ。
しかし、所詮は私が工作用のハサミで切った髪だ。
鯉子が跳ねるたびに細かい毛がそこら中に散らばる。
一度洗髪しようと鯉子を洗面所まで連れていったが、鯉子はまた嫌がった。

「プールの練習だよ、鯉子。」
しかし、私がそう言うと鯉子はわめくのをやめた。
「プール行くの。」
「鯉子がお利口にしてたら、連れてってあげる。」
「鯉子遊園地のプールがいい。シューッって滑るの。」
「駄目。遊園地は高い。そこの体育館のね。」

鯉子は一瞬すねたが、それでも水を張った洗面台には興味を示した。
「息継ぎしないで何メートル泳げるかな。はい、スタート。」
いっぱいに張った水の中に顔をつけると、時計の針を見ながら鯉子にも聞こえるように数を数え始めた。
「ひとーつ。ふたーつ。みーっつ。」  

三十秒経った。
このくらいまでは誰でもできるだろうか。
六十秒経った。
まだ鯉子は顔を上げない。
結構がんばっている。
百秒。
そろそろだろうか。
しかしまだ息は続くようだ。
百二十秒。百五十秒。
三分経っても、まだ鯉子は水に顔をつけたままである。

「もういいよ、鯉子。」
私は怖くなって、数えるのをやめた。
しかし鯉子は依然として、ぴったりと水面に張り付いて動かない。

「鯉子。」
もうすぐ五分という頃。
鯉子の肩を掴んで引き起こそうとした。
その瞬間、鯉子は跳ね上がるようにして水面から顔を出した。

「ね、鯉子すごかった?いっぱい泳げた?」
鯉子は目をキラキラさせて私の方を見た。
私が頷いてやると、やったーと歓声を上げ、また跳ねて水面をたたいた。
おかげで洗面所はびしょ濡れになったが、髪の毛は綺麗に払えた。


 



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