水 中 散 策

二:海底都市



3
体育館の屋内プールは小さい頃に良く来た。
普段は新宿の施設を利用しているが、ここに来るのは何年ぶりだろうか。
あのときのままのように見えたが、よく見ると結構さびれてしまっていることに気付く。
昔はもっと子供で混んでいた。
あるはずの声が聞こえない。

「中学生ふたり。いくらですか。」
受付のおばさんは以前もこんなかんじの人だった気がする。
ボリュームのある、温かそうなひと。
「いいよ、サービス。いつも来てくれてるからね。」
だから、大きくなってから来たことなんて一度もないのに。
何かと、誰かと、勘違いしているのだろうか。  

キャーッと子供の喚声が響いた。
見ると鯉子がはしゃいで走り出していた。
慌てて私も追いかける。
タイル張りの床はよく磨いてあった。
鯉子と私と、ふたり分の薄い影が滑っていく。
青白い光が遊ぶ。
エレベーターに続く窓ガラスは昔よりも一層曇っていて、太陽光を懐にためてぼんやりと浮かび上がった。  





鯉子はうさぎ柄の浮き輪をつけ、仰向けに寝転がる体勢で遊んでいた。
売店のお姉さんが、鯉子にタダで浮き輪を貸してくれた。
監視員も、ここではいけないはずの浮き輪の使用を見過ごしてくれた。
みんなが優しい。
世界がおかしくなっている。

鯉子は私ほどプールが好きではなかった。
でも、泳ぎはうまかった。
鯉子らしい。
長い髪をきちんと帽子の中に押しやって、つぃっと泳ぐ。
速かったな。
帽子を被らずに泳いだらきっと、あの黒髪が水面に散らばってエイみたいだろうと思った。
でも逆に鯉子は私に、魚子は何でそんなに水の中が好きなの、きっと祖先は魚だったんだよと言う。

夏が好きだった。
水に触れていられるから。
息苦しい夏の湿った空気も、水の中にいるようで私は嫌いではなかった。
それが新宿の人混みの中であっても。

今日も私は泳ぐわけでもなく、水にちゃぷちゃぷ浸り、気が向いたときに潜る。
頭を上げてふぅと息をつき、周りを見渡して、ふと思った。
あれから何年経っただろう。
私達はあれからどれだけ大きくなったのだろうか。

昔果てなく大きく見えたものが、今はとてつもなくちっぽけに見えるという話は良く耳にする。
でも逆はどうだろう。
このプールはこんなに広かったっけ、と思ってしまった。
あれから一度も改装工事を行っていなかったのか。
建物は老朽化し、染みだらけの壁は一部剥がれかけている。
プールの底のタイルだって。
こんなくすんだ水色だったか。
赤い十五メートルのラインは、こんなにもはげちょろけていたか。
気付けば泳いでいる人すらいない。
いるのは浮き輪で遊ぶ鯉子と、水中をウォーキングしている老人が数人だけ。
さびれた。
こんなにも。
昔はどうだったか。
少なくとも、子供の声は聞こえていた。
声の消えた灰色のプールには水しぶきの音だけが響き、まるで世界の果てのように、どこまでも続いているのではと思ってしまう。
胸が締め付けられた。

水に潜った。
この空間をたまらなく愛していた。
水の中は私のテリトリー。
私しかいないから、私が王様。
しぶきと静寂はみんな私の下僕で、私に跪いてキスをするの。
からくり箱のよう。
沈んでいると手足が鈍くて、自分がオブジェになったかのような気になる。
外界の音はここまで追ってこない。
わずかな音すら遮断するように、ゴウゴウと水の音が鼓膜を塞ぐ。
もう、無音で何もない。
くすんだ水中では目にも何も映らない。
見上げた外の世界は、光が水面に乱反射して、きらきら。
実際には灰色の壁とちゃちな照明しかないはずなのに、綺麗。
ありえないほど。
私だけの空間。
現実世界から切り取られて、ここに私のためだけに存在している。

人魚姫もこれに騙されたのだ。
水中から見上げたニセモノの世界に妄想を重ね、人間に恋をした。
十五になったら外へ行くと。
ありえもしない世界を夢見過ぎた。
それで結局、あっという間に死んでしまった。
ないものねだりをし過ぎたのだ。


 



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