水 中 散 策 二:海底都市 |
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体育館の屋内プールは小さい頃に良く来た。 普段は新宿の施設を利用しているが、ここに来るのは何年ぶりだろうか。 あのときのままのように見えたが、よく見ると結構さびれてしまっていることに気付く。 昔はもっと子供で混んでいた。 あるはずの声が聞こえない。 「中学生ふたり。いくらですか。」 受付のおばさんは以前もこんなかんじの人だった気がする。 ボリュームのある、温かそうなひと。 「いいよ、サービス。いつも来てくれてるからね。」 だから、大きくなってから来たことなんて一度もないのに。 何かと、誰かと、勘違いしているのだろうか。 キャーッと子供の喚声が響いた。 見ると鯉子がはしゃいで走り出していた。 慌てて私も追いかける。 タイル張りの床はよく磨いてあった。 鯉子と私と、ふたり分の薄い影が滑っていく。 青白い光が遊ぶ。 エレベーターに続く窓ガラスは昔よりも一層曇っていて、太陽光を懐にためてぼんやりと浮かび上がった。 鯉子はうさぎ柄の浮き輪をつけ、仰向けに寝転がる体勢で遊んでいた。 売店のお姉さんが、鯉子にタダで浮き輪を貸してくれた。 監視員も、ここではいけないはずの浮き輪の使用を見過ごしてくれた。 みんなが優しい。 世界がおかしくなっている。 鯉子は私ほどプールが好きではなかった。 でも、泳ぎはうまかった。 鯉子らしい。 長い髪をきちんと帽子の中に押しやって、つぃっと泳ぐ。 速かったな。 帽子を被らずに泳いだらきっと、あの黒髪が水面に散らばってエイみたいだろうと思った。 でも逆に鯉子は私に、魚子は何でそんなに水の中が好きなの、きっと祖先は魚だったんだよと言う。 夏が好きだった。 水に触れていられるから。 息苦しい夏の湿った空気も、水の中にいるようで私は嫌いではなかった。 それが新宿の人混みの中であっても。 今日も私は泳ぐわけでもなく、水にちゃぷちゃぷ浸り、気が向いたときに潜る。 頭を上げてふぅと息をつき、周りを見渡して、ふと思った。 あれから何年経っただろう。 私達はあれからどれだけ大きくなったのだろうか。 昔果てなく大きく見えたものが、今はとてつもなくちっぽけに見えるという話は良く耳にする。 でも逆はどうだろう。 このプールはこんなに広かったっけ、と思ってしまった。 あれから一度も改装工事を行っていなかったのか。 建物は老朽化し、染みだらけの壁は一部剥がれかけている。 プールの底のタイルだって。 こんなくすんだ水色だったか。 赤い十五メートルのラインは、こんなにもはげちょろけていたか。 気付けば泳いでいる人すらいない。 いるのは浮き輪で遊ぶ鯉子と、水中をウォーキングしている老人が数人だけ。 さびれた。 こんなにも。 昔はどうだったか。 少なくとも、子供の声は聞こえていた。 声の消えた灰色のプールには水しぶきの音だけが響き、まるで世界の果てのように、どこまでも続いているのではと思ってしまう。 胸が締め付けられた。 水に潜った。 この空間をたまらなく愛していた。 水の中は私のテリトリー。 私しかいないから、私が王様。 しぶきと静寂はみんな私の下僕で、私に跪いてキスをするの。 からくり箱のよう。 沈んでいると手足が鈍くて、自分がオブジェになったかのような気になる。 外界の音はここまで追ってこない。 わずかな音すら遮断するように、ゴウゴウと水の音が鼓膜を塞ぐ。 もう、無音で何もない。 くすんだ水中では目にも何も映らない。 見上げた外の世界は、光が水面に乱反射して、きらきら。 実際には灰色の壁とちゃちな照明しかないはずなのに、綺麗。 ありえないほど。 私だけの空間。 現実世界から切り取られて、ここに私のためだけに存在している。 人魚姫もこれに騙されたのだ。 水中から見上げたニセモノの世界に妄想を重ね、人間に恋をした。 十五になったら外へ行くと。 ありえもしない世界を夢見過ぎた。 それで結局、あっという間に死んでしまった。 ないものねだりをし過ぎたのだ。 |
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