水 中 散 策 三:シェルター |
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警報が解除されたというアナウンスが流れた。 街がため息をこぼし、ドアから人が湧き出てくる。 これから買い物に行くのだろう。 私も豚肉のビニル袋を持ったまま、ふらふらと街を歩いた。 次第に色を帯び音を息づき、街が普段の顔を取り戻していく。 その過程が良く見えた。 光化学スモッグは体を蝕むというわりには目にも見えないし、どれだけ害があるのかもわからない。 「スモッグが出た」という、言葉だけの恐怖であるような気もする。 本当は何一つ変わったことなどなかったりして。 あったのかさえわからないものが「消えた」と聞いて、人がぞろぞろと這い出てくる。 その姿がいかにも滑稽だった。 大王だって、本当はごく小規模だが侵略に来ていたのかもしれない。 姿も見えず、害もまだ見えないけれど。 そうだとしたら、笑えてくるではないか。 暑さはもう感じない。 かわりに風が強くなってきた。 異常に暑かった今日だから、何があっても不思議ではない。 馬のように流れていく雲の端に、見慣れた姿を見つけた。 群れからはぐれたのだろうか。 普段は新宿をねぐらにしているはずの、鮎水の巨エイだ。 灰色の腹部を大胆にもさらして、こちらへと向かってくる。 「おい、あれ。」 後ろを歩いていた男性がエイを指さした。 一緒にいた奥さんらしき女性と小さな子供も、空を見上げた。 「来るぞ!」 エイは腹を剥き出しにしたまま、風にのってぐんぐん近づいてくる。 奥さんは子供を抱きかかえると、小走りにファミリーレストランの方へかけて行った。 巨エイが見えているか。 今まで鯉子にすら見えなかった、鮎水とエイの姿。 いつも間違っているのは私だったのに。 どうして。 「おい、君何してるんだ。」 さっきの男性が私の腕を引っ張った。 あなた、とファミレスの駐車場から奥さんが声をかける。 「来るぞ、早く屋根のある方に……。」 エイのことだろうか。 この人達は一体何を。 しかしもう一度空を見上げて、やっとその意味がわかった。 巨エイはぐにゃぐにゃと形を変え、真っ黒な鉛の雲になっていた。 風に乗ってとてつもない速さで近づいてくる。 背筋が凍った。 アレが来るのだ。 男性の後を追って全速力で走る。 途中で額にぽつりと感じ、しまったと冷や汗が流れた。 がむしゃらに駐車場に転がり込んだが、あと一歩のところで間に合わなかった。 私の体が完全に屋根の下に入る前にぽつりという感触はドウッという音に変わり、左足をさらっていった。 その勢いでよろける。 先に避難していたさっきの男性が大丈夫、というような口の動きをして近づいてきた。 私は一応お礼を言って頭を下げたけれど、もう自分の声すら聞こえなくなっていた。 バケツをひっくり返した、どころではない。 まさに滝のような雨である。 ドドドッという轟音が全ての音を食い尽くした。 雨が地面に直撃し、あっという間に駐車場にまで水は流れ込む。 駐車場脇の用具入れは雨ざらしになり、ガガガガッと激しい金属音を立てている。 恐ろしい。 この雨は恐怖以外の何物でもない。 水しぶきが風で舞い上がり、もうもうと湯気のように立ち上がって視界を白く染め上げた。 外で避難に間に合わなかった人達が逃げ惑う。 ヒールの女性が転んだ。 ところどころで悲鳴が上がった気がしたが、雨の音に消されて聞こえない。 唯一、同じ屋根の下にいるあの子供の泣き声だけは私の耳にも届いた。 男性が止めたが、奥さんは子供をあやすために反対側の出口へ向かった。 ほら、何も怖くないのよ、こっちはこんなにお空がきれいでしょ、とでも言っているのだろうか。 そう、この小さな駐車場の反対側はまだ晴れているのだ。 こんな気違いじみた天気も。 初めてではなかった。 今年に入ってからはもう十回近く起こっている。 街の住民も、この異常現象をとうに認知している。 しかし去年まではなかったのだ。一度たりとも。 テレビの報道が記録を次々に塗り替えていく。 もうこの街にも残された時間は少ないのかと、思わず考えてしまう。 考えずにはいられない。 洗い流されてしまうよ。 鯉子が憎んだこの街さえも。 もしもノストラダムスの予言が本当で、時期を間違えていただけだとしたら。 もし、今大王が攻めてきて人類は滅びるというのなら。 私は信じてしまうと思う。 塗れた左足が気持ち悪くてぶらぶらさせていると、ふいと隣に人影が現れた。 この雨で鮎水も避難してきたのだ。 |
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