水 中 散 策

四:夜想列車



1
「ただいま。肉買ってきたよ。」  

家に戻ると寝ぼけた繭花が私を出迎えた。
「悪い、部屋借りて寝てた。
何、どうしたのその足。またどっか用水路にでも落ちたの。」
繭花は私の不自然に塗れた左足を見つけた。
「雨だよ。さっきすごい降ってきた。」
「ふーん、寝てたから全然気づかなかった。」
そういって特に意識するわけでもなくひょいと窓の外を見た。
「わ、何これ。何でこんなになってるの。ありえない。」
窓の外は雨上がりと呼ぶにはあまりにも似合わなかった。
空こそ晴れているものの道路は水浸しで、人が歩ける道はなくなっている。

「繭花料理できる?豚肉買ってきちゃったんだけど。」
「何で作れもしないもの買ってくるのよ。しょうがないな、私がやるしかないじゃない。
鯉子は"おかしい"んでしょ?」
そう言ってやや不満げに台所へ向かい、冷蔵庫や戸棚をガサガサし出した。
「何この家、何でこんなに何もないの。」
背中越しに半分悲鳴っぽい繭花の声が聞こえた。
ありえない、また叫んだ。





「鯉子、おやつ買ってきたよ。」
とりあえず厄介事が起こらないようにと、私の留守中は隣の部屋に押し込んでおいた。
ノックをしても返事がなかったが、鍵はかかっていなかったので中へ入った。

「鯉子。」
鯉子はソファの上に寝そべってテレビを見ていた。
しかしモニターはもう鯉子の好きそうな番組は映しておらず、CMだか番組だかわからないテレビショッピングが流れている。
電話一本ですぐ届けてくれるアレだ。
二組セットでおまけがこれだけついて、何とこのお値段、という。
「鯉子、アイアンマン終わってんじゃん。」
鯉子の了承なんて得ていなかったが、私は勝手にテレビの電源を切った。
案の定鯉子もテレビの方を向いてはいるが、視線は外れている。

「お菓子買ってきたよ。夏季限定の夕張メロン味だって。」
スーパーの半透明なビニル袋をかき回して、オレンジ色のパッケージを鯉子に渡した。
鯉子はしばらくじっとその箱を見つめたあと、寝そべったまま開けようとかかった。
しかしつまみがうまく指にひっかからず、開けることができない。
「何鯉子、具合悪いの。まさか本当に夏バテ?」
鯉子があまりにも手間取っているから面倒になって、箱を取り上げて中のビニルまで裂いてやった。
剥き出しになったスティック状のチョコ菓子を、鯉子は一本選んで左手で掴む。
しげしげと眺めてから口に運んだ。

「鯉子。」
一口で入らないことが見てわからないのか。
鯉子は砕こうとも噛もうともせず、スティックを口いっぱいにほおばり、それでもまだ収めきれずにいた。
「鯉子何してんの。歯はどうしたの。」
鯉子はもう、噛むことすら忘れてしまっていた。

「鯉子。」
私は菓子を一センチくらいずつに折って、小さな欠片にしてから皿に載せた。
鯉子はそれをつまんで指ごと口の中へ入れると、ろくに口を動かしもせずに丸飲みした。
そうして皿が空になると、口を半開きにしたまま嬉しそうに体をゆすった。
彼女の胃袋の中では砕かれたスティク同士が衝突して、カスタネットのような音でも立てているのだろうか。  

リモコンが落ちてテレビがついた。
テレビショッピングはもう終わっていて、替わりに流れたのは昼のニュースだった。
どこかの大型遊園地が映っている。
たくさんの家族連れが見えるが、それでも客は見込み以下らしい。
少子化の上異常気象の影響もあって、行楽地は経営難だとレポーターが伝える。

「ゆうえんち!」
鯉子がいきなりソファの上に起き上がり、観覧車の映像を見て飛び跳ねた。
「ゆうえんちっ、ゆうえんちっ。」
「鯉子、うるさいからやめなさい。ホコリたつから。」
それでも、子供の鯉子にそんな理屈がわかるわけもなく。
遊園地のレポートが終わるととたんに不機嫌になって、ソファにのぼっては床に飛び降りるという動作を繰り返した。

幼稚園くらいの子供だったなら、私だって笑って見過ごしたかもしれない。
しかし鯉子は中学生で、もうすぐ十五歳。
倒れれば後ろにはガラス窓があるし、体の大きな鯉子が暴れるのは幼稚園児が駄々をこねるのとは訳が違う。
そして何より、鯉子は私の優秀な姉だった。

「鯉子!」
また上がろうとした鯉子の足をぴしゃりと叩いた。
鯉子は半ベソをかき再度挑戦するが、私がその腕をも払いのけると、みるみる顔をゆがませていった。

破裂したような泣き声が聞こえる前に、私は部屋を出てドアをしっかりと閉めた。
時間が鯉子のまわりに渦を巻き、逆回転を始めていた。
鯉子が戻ってゆく。いつも私を見下していた鯉子が。
いつか鯉子はおぎゃあと泣いて、それっきりになってしまうのだろうか。
鯉子の無邪気が、私をみじん切りにしていく。


 



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