水 中 散 策

四:夜想列車



2
「何暴れてたの。」
部屋を出たところで繭花に出くわした。
「うん。」
それだけ言うと、涙が溢れてきた。
鯉子にも負けない大声で、子供みたいに泣きじゃくった。
「ちょっとやめてよ、亜由美が聞いたらどうするの。」
繭花はそう怒鳴り、私を離れた部屋まで連れていくとドアに鍵をかけた。

「鯉子が、子供に戻ってってた。」
「うん、知ってるよ。さっきも言ってたじゃん。」
「違う、戻ったんじゃなくて、今もまだ、戻っていってる。まだ、どんどん子供になってる。」

鯉子の幼児帰りは一過性のものではなかったのだ。
症状は徐々に進行していく。
少しずつ言葉が少なくなってきた気はしたが、確かではなかったし、あまり気にもしていなかった。
しかし今、一人外に出て一番最初に近い状態から見た鯉子は、もうどの鯉子でもなくなっていた。

「もう歯がないの。」
「このままどんどん子供に戻って、そのうち赤ちゃんになって、それも越えたら鯉子は。」
そこまで言って、また私はわーっと泣いた。
「さっちゃんになっちゃう。」

鯉子。
これが今まで十四年と三百何日か、鯉子が見てきた世界。
鯉子は頭が良かったから。
そして人一倍プライドの高いナルシストだったから。
私なんて赤ん坊に見えたのだろう。
ただの赤ん坊ではない。体は中学生だ。
家に帰ったらガラスが割れているかもしれない。
家が丸ごと焼けているかもしれない。
鯉子にとって、私は爆弾を抱えた赤ん坊だったのだ。
自分と同じ姿をしているが、しかし言葉は通じない。
赤ん坊だから、泣く。吠える。

「あれは私なんだ。」  
繭花はほとほと困って、夕飯作らなきゃと言って向こうへ行った。
私は一人残され、思う。
鯉子が子供に帰っていく意味。
人類が滅亡して、この世に一人ぼっちになったかのような感覚がした。





結局その日の夕飯はスーパーで買った弁当と、繭花が例の豚肉で作った変なスープだった。
湯に肉をつっこんだだけで、塩と胡椒がやたらと利いているという珍品だ。
油すら切らしてるあんた達が悪いんだからね、と繭花の方が先に文句を言った。
一口飲んで、勝手な話だが私は塩辛さに口をとがらせ、作った本人も実に勝手な話だが、胡椒にむせ返っていた。
それを見ていた亜由美は最初から口をつけなかった。
この子は案外賢いぞと思った。

鯉子は食事の間中、スープをスプンに載せてはひたすらテーブルの上にぶちまけていた。
繭花が何も言わないから、私もそのままにして放っておいた。  





そして時間は零時。
私達はまだ平気だけど、子供はもう寝る時間だ。
強引に四枚横に並べた蒲団の一番端に、鯉子は早々と潜り込んで眠りに就いていた。
一方で亜由美はというと、コーヒーゼリーを食べ続けて睡魔と戦っている。
「いいの、こんな夜更かしさせて。」
「うん。今日はテレビがある日だから。」  

亜由美は蒲団から這い出して、テレビの真ん前の特等席を占領していた。
私と繭花はその後ろで半分蒲団に入りながら、頬杖をついてブラウン管の光を眺めていた。

テレビは深夜の音楽番組だった。
とても亜由美のような年頃の子が観るような番組ではないけれど、彼女らしいというか、本人は至って真剣だ。

週間の売り上げランキングが下から順に始まっていく。
五十位くらいだと知っている歌も少ない。
上位の発表の前に、七年前の八月のランキングが入った。
私達がちょうど亜由美と同い年だった時のだ。
一瞬、亜由美の黒い後ろ姿が鯉子に見えた。

「あれ、この曲。」
「うわ懐かしい。」
繭花とほぼ同時にそう漏らした。

小さい頃繰り返しよく聞いた。
子供でも誰もが知っていた、当時大流行した歌だ。
ふとしたときに、例えば風呂の中とかで、無意識で口ずさんでいたりする歌。
誰の何という曲かなんてわからないけれど、歌詞は今でも完璧に覚えている。
「あの人の歌だったの。」
音楽番組でちょくちょく見かける大御所だ。
今ではそんなに流行っているわけではないが、歌は出せば売れるし、根強いファンも多いことは私でも知っている。
あの人の全盛期の歌だ。  

それだけではなかった。
ランキングの読み上げは続き、その度に懐かしいメロディーが湧き上がる。
そしてそのほとんどが今でも違和感なく使われるような、あまりにも有名すぎる歌達だった。
「こんな時代があったんだ。」

コーナーが変わってまた今週のランキングが始まった。
この中で、一体何曲が後世に残っていくのだろう。
それどころか、あの後の七年間、あれらに匹敵する歌が一体何曲生まれただろうか。
何という幻のような、夢のような時代。
あのたった一ヶ月は、一体どれだけの重さを担うのだろう。
今週の一位の曲が流れて、歌手がコメント述べる。
この歌は残らない。
一瞬でそう思えるほど、華はなかった。

「時代って、生き物なのかもしれないね。生きてる。」  
難しい定義をすれば、「いのち」と呼べる一番小さな単位は細胞なのだと。
繭花が教えてくれた。
DNAを持っていて、自己増殖することができるから。
でもその細胞同士が関係し合い、共鳴してできた体もまた、私というひとつの生命なのだ。
矛盾しているようだけれど。

それと同じ。
人間同士が複雑に関わり合って生まれた街や時代もまた生命。
生きている。
何かが違えば今の姿ではいられなかった。
また今もなお絶えることなく変化し続け、中身がわずかに入れ替わりながらもひとつの体型を維持している。
歌手達が互いに影響を受けながら生み出していったのも、ひとつの大きな生命体。
重い重い時代。
かつて、あんな栄えていた時代があったのだ。

「帰りたい?」  
隣にいた鯉子が、寝返りを打ってそう言った。
もう眠ったと思っていたのに。
「帰ろっか。」

そのときの鯉子の表情をどう表していいのかわからなかった。
私はプラナリアが増殖していくのを眺めるような、不思議な気持ちで見入ってしまった。
ただ、光っていたような気がする。  


 



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