水 中 散 策 四:夜想列車 |
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「何暴れてたの。」 部屋を出たところで繭花に出くわした。 「うん。」 それだけ言うと、涙が溢れてきた。 鯉子にも負けない大声で、子供みたいに泣きじゃくった。 「ちょっとやめてよ、亜由美が聞いたらどうするの。」 繭花はそう怒鳴り、私を離れた部屋まで連れていくとドアに鍵をかけた。 「鯉子が、子供に戻ってってた。」 「うん、知ってるよ。さっきも言ってたじゃん。」 「違う、戻ったんじゃなくて、今もまだ、戻っていってる。まだ、どんどん子供になってる。」 鯉子の幼児帰りは一過性のものではなかったのだ。 症状は徐々に進行していく。 少しずつ言葉が少なくなってきた気はしたが、確かではなかったし、あまり気にもしていなかった。 しかし今、一人外に出て一番最初に近い状態から見た鯉子は、もうどの鯉子でもなくなっていた。 「もう歯がないの。」 「このままどんどん子供に戻って、そのうち赤ちゃんになって、それも越えたら鯉子は。」 そこまで言って、また私はわーっと泣いた。 「さっちゃんになっちゃう。」 鯉子。 これが今まで十四年と三百何日か、鯉子が見てきた世界。 鯉子は頭が良かったから。 そして人一倍プライドの高いナルシストだったから。 私なんて赤ん坊に見えたのだろう。 ただの赤ん坊ではない。体は中学生だ。 家に帰ったらガラスが割れているかもしれない。 家が丸ごと焼けているかもしれない。 鯉子にとって、私は爆弾を抱えた赤ん坊だったのだ。 自分と同じ姿をしているが、しかし言葉は通じない。 赤ん坊だから、泣く。吠える。 「あれは私なんだ。」 繭花はほとほと困って、夕飯作らなきゃと言って向こうへ行った。 私は一人残され、思う。 鯉子が子供に帰っていく意味。 人類が滅亡して、この世に一人ぼっちになったかのような感覚がした。 結局その日の夕飯はスーパーで買った弁当と、繭花が例の豚肉で作った変なスープだった。 湯に肉をつっこんだだけで、塩と胡椒がやたらと利いているという珍品だ。 油すら切らしてるあんた達が悪いんだからね、と繭花の方が先に文句を言った。 一口飲んで、勝手な話だが私は塩辛さに口をとがらせ、作った本人も実に勝手な話だが、胡椒にむせ返っていた。 それを見ていた亜由美は最初から口をつけなかった。 この子は案外賢いぞと思った。 鯉子は食事の間中、スープをスプンに載せてはひたすらテーブルの上にぶちまけていた。 繭花が何も言わないから、私もそのままにして放っておいた。 そして時間は零時。 私達はまだ平気だけど、子供はもう寝る時間だ。 強引に四枚横に並べた蒲団の一番端に、鯉子は早々と潜り込んで眠りに就いていた。 一方で亜由美はというと、コーヒーゼリーを食べ続けて睡魔と戦っている。 「いいの、こんな夜更かしさせて。」 「うん。今日はテレビがある日だから。」 亜由美は蒲団から這い出して、テレビの真ん前の特等席を占領していた。 私と繭花はその後ろで半分蒲団に入りながら、頬杖をついてブラウン管の光を眺めていた。 テレビは深夜の音楽番組だった。 とても亜由美のような年頃の子が観るような番組ではないけれど、彼女らしいというか、本人は至って真剣だ。 週間の売り上げランキングが下から順に始まっていく。 五十位くらいだと知っている歌も少ない。 上位の発表の前に、七年前の八月のランキングが入った。 私達がちょうど亜由美と同い年だった時のだ。 一瞬、亜由美の黒い後ろ姿が鯉子に見えた。 「あれ、この曲。」 「うわ懐かしい。」 繭花とほぼ同時にそう漏らした。 小さい頃繰り返しよく聞いた。 子供でも誰もが知っていた、当時大流行した歌だ。 ふとしたときに、例えば風呂の中とかで、無意識で口ずさんでいたりする歌。 誰の何という曲かなんてわからないけれど、歌詞は今でも完璧に覚えている。 「あの人の歌だったの。」 音楽番組でちょくちょく見かける大御所だ。 今ではそんなに流行っているわけではないが、歌は出せば売れるし、根強いファンも多いことは私でも知っている。 あの人の全盛期の歌だ。 それだけではなかった。 ランキングの読み上げは続き、その度に懐かしいメロディーが湧き上がる。 そしてそのほとんどが今でも違和感なく使われるような、あまりにも有名すぎる歌達だった。 「こんな時代があったんだ。」 コーナーが変わってまた今週のランキングが始まった。 この中で、一体何曲が後世に残っていくのだろう。 それどころか、あの後の七年間、あれらに匹敵する歌が一体何曲生まれただろうか。 何という幻のような、夢のような時代。 あのたった一ヶ月は、一体どれだけの重さを担うのだろう。 今週の一位の曲が流れて、歌手がコメント述べる。 この歌は残らない。 一瞬でそう思えるほど、華はなかった。 「時代って、生き物なのかもしれないね。生きてる。」 難しい定義をすれば、「いのち」と呼べる一番小さな単位は細胞なのだと。 繭花が教えてくれた。 DNAを持っていて、自己増殖することができるから。 でもその細胞同士が関係し合い、共鳴してできた体もまた、私というひとつの生命なのだ。 矛盾しているようだけれど。 それと同じ。 人間同士が複雑に関わり合って生まれた街や時代もまた生命。 生きている。 何かが違えば今の姿ではいられなかった。 また今もなお絶えることなく変化し続け、中身がわずかに入れ替わりながらもひとつの体型を維持している。 歌手達が互いに影響を受けながら生み出していったのも、ひとつの大きな生命体。 重い重い時代。 かつて、あんな栄えていた時代があったのだ。 「帰りたい?」 隣にいた鯉子が、寝返りを打ってそう言った。 もう眠ったと思っていたのに。 「帰ろっか。」 そのときの鯉子の表情をどう表していいのかわからなかった。 私はプラナリアが増殖していくのを眺めるような、不思議な気持ちで見入ってしまった。 ただ、光っていたような気がする。 |
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