水 中 散 策

四:夜想列車



4
目が覚めると朝だった。
いつ寝たんだっけ。
テレビの電源は消えている。
うつぶせのまま寝ていたから肩と背中が痛い。
「鯉子。」  
ふと隣を見ると、鯉子がいなくなっていた。
蒲団ごと消えていた。

「鯉子。」
居間へ行く。
台所を覗く。
しかし、鯉子の部屋にも姿は見あたらなかった。
携帯電話も繋がらない。

「ねぇ、鯉子がいない。」
私は寝ている繭花をゆり起こした。
繭花は目を覚ますと慌てて隣を見たが、耳栓をした亜由美はまだ眠っている。
それから鯉子の蒲団があったはずの畳を見、替わりにすっかり焼けた緑色が覗いているのを確認すると、起き上がって私を居間に連れていった。
「いつからいないの。」
「わからない。朝起きたらいなかった。夜中に抜け出したんだと思うけど。
誰も気付かなかったのか。」

鯉子と電車に乗った。
鯉子の、泣きそうでいながらも力強い目の光を脳裏に浮かべた。

「あ、これじゃない。メモがある。」
繭花があの不味いスープを載せたテーブルから、紙切れを拾い上げた。
ほら、と私にひらひらさせたので、私も覗き込んだ。

「こいこ、かえります」

そこにはたどたどしい文字で、その一言だけ書かれていた。
「進学校は大変だね。鯉子くらい頭が良くってもこんなかんじなのかね。
うちらには関係ないけど。」
「え、何いきなり。」
「何って、書いてあるじゃない。宿題終わりそうにないから、隣町の図書館まで行ってくるって。」
「嘘、そんなのどこにも書いてないよ。」

こいこ、かえります。
どこへだか知らない。
ただ、そう書いてあるだけだ。
画用紙を破いたギザギザが残っている紙面には、赤いクレヨンで書いた子供っぽい文字。
もう歯もない鯉子が残した。

「もしかしたら私、鯉子が家出るとこ見たかもしれない。」
「だってさっき、朝起きたらいなかったって。」
「夢見たんだ。電車に乗ってて、鯉子が帰りたいって言って、私も帰ろうって言ったところで目が覚めた。」
「意味わかんないよ!さっきから、ずっと。」
繭花が叫んだ。
そんな声を出すと亜由美が起きるよと言ったけれど、苛立ってる繭花に無視された。
「大体、鯉子がおかしいって何だよ、魚子の方がよっぽどおかしいじゃない。」
繭花はそう言い捨てて、少しの間二人共黙った。

声を荒げた指先がぶれて、鯉子のメモが落ちた。
床につくまでの一瞬、ちらりと「図書館」という黒い文字が見えたような気がした。
私は怖くなった。  

鯉子の部屋に逃げ込んだ。
目の前に、あのダンボールの家があった。
珍しく鯉子が私を頼って、私が鯉子の役に立った。
鯉子のおうち。
鯉子が、死ぬまでの日数をこの中で数えた。
中に潜り込む。
これは鯉子のだったから、私は一度だって自分で入ったことなどなかった。
思っていたより中は窮屈だった。
ダンボールの柱を潰さないように気を付けると、背中に変に力が入る。  

鯉子BOXの中で、ほぼ真っ黒に塗り潰された壁を指でなぞった。
強くこすると指先にインクが移って黒ずんだ。
これが鯉子の世界。
もともとはたくさんのマス目が描いてあって、毎日ひとつずつ、鯉子は塗り潰していった。
鯉子が自分の墓場を私に託した。
それがなんだか妙にこそばゆくて。
不謹慎な話だが、私は鯉子がこのダンボールハウスを塗り潰していくのがちょっと楽しみだったのだ。  

鯉子は子供に戻ってから、このハウスには一切触らなくなった。
当然この「寿命カレンダー」も、鯉子がおかしくなった日以来止まったままだ。
あれから何日経っただろう。
私は指を折って数えながら、鯉子の代わりに塗り潰してあげようと思った。  


 



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