水 中 散 策 六:蝉と白昼夢 |
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鮎水の後を追うようにして、エイの大群が空を飛ぶ。 巨体が通るたびに空が遮られ、エイの体と同じ鈍色の影が落ちる。 そして当たりは次第に廃墟のように色褪せ、彩度を失っていく。 白亜の宮殿を走る。 大理石の螺旋階段を駆け下りる。 太陽は高く、天井は高い。 なめらかに白い床にはミルク色のエンタシスが映り、私はその影を踏まないように気を付ける。 ブラインドのような縞模様は川になって流れ、踏み出した足をすくいあげていく。 そんな幻を見せながら鮎水は無邪気にアスファルトを跳ね、どこかを目指す。 私は追いかける。 観覧車は相変わらず空を覆ったままだけれど、だんだんと広場を離れていくのはわかった。 もう人の声はしない。 蝉の声も聞こえない。 緑もない。 足下には土があるだけで、コンクリートの塊さえもない。 ここはどこだろう。 観覧車は依然として巨大化を続けている。 「これ見て、鮎水の。かっこいいでしょ。」 辺りは荒涼たる風景に切り替わり、足を止めた。 錆びきった観覧車がぽつんと立っている他は何もない。 鮎水は両腕を振って勢いをつけると、壊れかけたゴンドラに飛び乗った。 赤茶色の土埃が立つ。 「これ、おもちゃ?」 「ううん、本物だよ。観覧車。」 元々はあの巨大観覧車と同じ、赤色をしていたことが想像できる車体だった。 「何でこんなに小さいの。」 「大人になっちゃったからだよ。」 そんな馬鹿な、と思った。 ミニチュアではない。 証拠に、ゴンドラはたったの三つしかついていない。 鮎水は窓から片足を出すと、鉄骨の部分をぐいと蹴った。 ギイギイと派手な音を立てて錆の粉をまき散らし、ゆっくりとだが力強く、観覧車は回転する。 危ないよ、私は叱ったが、鮎水は聞きやしない。 どこかで見た光景だと思った。 ゆっくりと回転していく観覧車を見て、薄々感じていたデジャヴとも思える違和感が強くなっていく。 「ここ、鮎水のおうち。」 鮎水が無邪気な表情を崩さずに、そう呟いた。 ちょうどノストラダムスの予言の頃だったはずだ。 そう確か、ノストラダムスの予言が外れたといって、国民がほっとしたようながっかりしたような、騙されたと憤慨するような、祭が雨天で中止されたかのような、そんな空気を漂わせていたあの頃である。 亜由美の顔を見せに来た繭花達とみんなでここへ来た。 当時はまだ全盛期で、この遊園地も活気に満ちていた。 観覧車が新しい車体と交換されて、客も一気に増えたときである。 「巨大観覧車の遊園地」という売り出し文句につられ、私達も祭に便乗したのだ。 大観覧車は一時間以上並ぶ長蛇の列だった。 順番を待つ間中、鯉子と私は赤ん坊に夢中だった。 繭花がなかなか触らせてくれなかったが、それでもあやすのかからかうのかという行為を繰り返しては面白がっていた。 亜由美は今では信じられないくらい、よく泣いてよく暴れた。 「女の子はもうちょっとおとなしいものなんだけど。」とおばさんは苦笑した。 そして慣れた手つきで亜由美の世話を焼いている繭花が、いつもより大人っぽく見えて、羨ましかった。 その日はベビーカーに乗った赤ん坊が片端から気になった。 まだ口もきけない赤ちゃん。 動いて泣いて、食べて寝るだけだが、全ての大人の源なのだ。 その小さな命が不思議で仕方なかった。 並ぶ間、途中で鯉子と私はわずかだが自由時間をもらった。 何をしようかと鯉子と話しながら歩いていた。 遊園地の奥の方まで来たとき。 建物の裏に一台の乳母車が止まっているのをみつけた。 鯉子は気付いていない。 赤ん坊の母親は中で何をしているのだろう。 出てくる気配はなかった。 そのときの私が何を考えていたのか、自分でも覚えていない。 鯉子の目を盗んで乳母車に近づいた。 「何してるの」と誰かに聞かれるのが怖かったから、人目につかないところまで移動させた。 今度は自分がしでかしたことが怖くなり、暗い方へと走った。 乳母車はガタガタと音をさせ、小石を蹴散らす。 息もつかずに走って、走った。 ただ林の奥を目指した。 赤ん坊は起きなかった。 これを誘拐と呼ぶのだろう。わかっていた。 何でこんなことをしてしまったのか。 怖くて怖くて、赤ん坊の顔さえ見ないうちにベソをかき始めた。 三十分くらい、一緒にいただろうか。 いやそんなはずはない。 十分か、あるいはもっと短い時間だったのかもしれない。 何かを待っている時間は途方もなく長い。 怖いながらも、誰かが犯罪者である私をみつけて、叱ってくれるのを待っていた。 しかし捜索隊はなかなか来ない。 たまに人が通っても、気にもせずに横目で通りすぎて行った。 みんな観覧車に並ぶために急いでいた。 不思議な時間だった。 誰も探しに来ない。 出かけた涙も乾いていた。 赤い観覧車だけは木々の間からその巨体を覗かせ、空を塞いでいた。 蝉の声が耳をつんざく。 恐ろしいほど大きい。 食うか食われるかの如く、前から後ろから、覆い被さるようにして鳴いている。 彼等があまりにも激しく泣くから、私は自分が泣くことすら馬鹿馬鹿しく思えてしまった。 だって、誘拐された当の本人さえ、泣いてなどいないではないか。 そして同時に、私は始めて一人きりの時間を手に入れたのだ。 生まれて初めて、鯉子が側に居なかった。 違和感に耐えられなかった。 寂しいとか、怖いといった感情ではない。 例えるならある日いきなり左手を失ったかのような。 隣にあるはずのものがないのだ。 そして気付いた。 もしかしたら自分は一人しかいないのではないか。 もう一人の自分、半身だと思っていた鯉子は一体どこへ消えた? 何故今ここにいない。 いつも追いかけていた背中が、探しても探しても見つからないのだ。 当たり前すぎる事実が私の思考回路を奪う。 体の左半分が剥がれ始めた。 バラバラになると溶けるようにして蒸発していく。 私、半分になってしまう。 その恐怖で一瞬パニックを起こし、叫んだ。 何と言ったのかは良く覚えていないが、確か「たすけて」だったと思う。 |
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