水 中 散 策

七:ヘヴン



2
監視員が扉を閉め、ゴンドラはゆっくりと上昇を続けていく。

「見えそうで見えないんだなぁ。」
繭花が恨めしそうに言った。
鯉子の乗ったゴンドラは斜め上方に腹を見せているだけである。
私も窓に額をつけながら、風が吹いてあのゴンドラが揺れたら中が見えるのにと思っていた。

「この観覧車って、あのときから一度も改装してないんだよね。」
繭花が座席のシートを指でいじくった。
端の方は破れて、中から黄色いスポンジが覗いている。
引っ張り出してはまた元のところに押し込んでいた。  

繭花が目を離した隙に、亜由美が窓を叩き始めた。
初めはコンコンと手の甲でノックするようにしていたが、そのうち何を思ったのか、手のひらでバチバチと叩き始めた。
「どうしたの亜由美、やめなさい。」
繭花が制止すると、亜由美はフーッと唸って、今度は膝で窓を蹴り始めた。

「ああ、あれ?亜由美、あれを教えたかったの?」
窓に張り付いた亜由美を引き剥がした。
「何だろうね、あれ、人がいっぱい集まってるね。川のお水見てるのかな。」
そう言って、ふと眉をひそめた。
「ねぇあれ……もしかして花火?」
「あ、多分そう。さっき、花火大会あるみたいなこと言ってた親子がいたから。」
「馬鹿!何で早く言わないの。始まってからじゃ遅いのよ、このとんま!」

そう私に罵声を浴びせると、バッグの中から耳栓を取り出した。
驚くほど素早い動作で亜由美のヘッドフォンを外すと、耳栓に付け替える。

「ああ。」
慌てたついでに、耳栓の入ったプラスチックケースを落とした。
予備の耳栓が床を転がる。  

拾い集めようとしてかがみ、膝をつき、手を伸ばしたところで繭花は動きを止めた。
そのまましばらくじっとして、何か考えている様子を見せた。
膝を浮かせないまま亜由美の方へ向き直る。 「

亜由美、それは屋台で?」
亜由美が持っている、赤い金魚の絵がついたバケツを指差した。
万札をくずして遊んだ亜由美は、他にもいろんな「戦利品」を抱えて戻ってきた。

「うん。」
頷いたのは問われた亜由美ではなく、繭花の方。
繭花はその間一度も私の方は見ず、あえて背を向けるよう体勢を変えた。

「それじゃあ、これからはもう、亜由美が持ってた方が良いね。」
そう言って、繭花はケースをバケツの中にぽとんと落とした。
カチリという金属音がして、亜由美は魚でも捉えたかのような顔で中を覗き込んだ。

繭花の声が震えていた。  



ゴンドラが頂上へ到着する前に花火は始まった。
最初に大きいのが一発。
次に小さいのが連続して数発。
パラパラチリチリ、何かが焦げ千切れたような、歯にひっかかる音がここまで聞こえた。

「綺麗だね。」
繭花が蚊の鳴くような声で亜由美に話しかける。
観覧車が気を利かせて照明を落としたので、花火の光は中まで届いた。
私の前に並んで座るふたりは、完全に黒い影となっていた。
「特等席、取り損ねちゃったね。亜由美、テレビで見る花火は好きだったもんね。
今度はちゃんと日にち調べて、もっと近くで見よう。」

抱くようにして亜由美の肩に置いてあった手は次第に降下し、腕になって、手を繋ぐ形になって、指が一本ずつ離れていった。
そして人影は完全にふたつに分離した。
私は懐かしい気持ちでそれを眺めていた。
卵に似ているのだ。
鯉子と私が生まれてくる前の、まだたったひとつだったときの卵である。  

強くなるということ。
私は何かぼんやりした雲のような、でも水滴が手に付くのはわかるような、そんなほのかな手応えを感じた。
こういうことだったのだ。
子供はいつまでも子供なわけではない。
知っている。
しかし、大人だっていつまでも大人なわけではない。
子供に戻っていくのだ。

赤ん坊時代、もしくは生まれる前の時代。
全てが自分と等しいに近く、全てが自分の思い通りに動いた夢のような時代。
全てが揃っていた桃源郷。
でも、私は帰らない。
帰らないよ。  





そしていよいよ、ゴンドラは頂上にさしかかる。  


 



水中散策TOP
/ MUSEUM TOP / INDEX