水 中 散 策 七:ヘヴン |
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監視員が扉を閉め、ゴンドラはゆっくりと上昇を続けていく。
「見えそうで見えないんだなぁ。」 繭花が恨めしそうに言った。 鯉子の乗ったゴンドラは斜め上方に腹を見せているだけである。 私も窓に額をつけながら、風が吹いてあのゴンドラが揺れたら中が見えるのにと思っていた。 「この観覧車って、あのときから一度も改装してないんだよね。」 繭花が座席のシートを指でいじくった。 端の方は破れて、中から黄色いスポンジが覗いている。 引っ張り出してはまた元のところに押し込んでいた。 繭花が目を離した隙に、亜由美が窓を叩き始めた。 初めはコンコンと手の甲でノックするようにしていたが、そのうち何を思ったのか、手のひらでバチバチと叩き始めた。 「どうしたの亜由美、やめなさい。」 繭花が制止すると、亜由美はフーッと唸って、今度は膝で窓を蹴り始めた。 「ああ、あれ?亜由美、あれを教えたかったの?」 窓に張り付いた亜由美を引き剥がした。 「何だろうね、あれ、人がいっぱい集まってるね。川のお水見てるのかな。」 そう言って、ふと眉をひそめた。 「ねぇあれ……もしかして花火?」 「あ、多分そう。さっき、花火大会あるみたいなこと言ってた親子がいたから。」 「馬鹿!何で早く言わないの。始まってからじゃ遅いのよ、このとんま!」 そう私に罵声を浴びせると、バッグの中から耳栓を取り出した。 驚くほど素早い動作で亜由美のヘッドフォンを外すと、耳栓に付け替える。 「ああ。」 慌てたついでに、耳栓の入ったプラスチックケースを落とした。 予備の耳栓が床を転がる。 拾い集めようとしてかがみ、膝をつき、手を伸ばしたところで繭花は動きを止めた。 そのまましばらくじっとして、何か考えている様子を見せた。 膝を浮かせないまま亜由美の方へ向き直る。 「 亜由美、それは屋台で?」 亜由美が持っている、赤い金魚の絵がついたバケツを指差した。 万札をくずして遊んだ亜由美は、他にもいろんな「戦利品」を抱えて戻ってきた。 「うん。」 頷いたのは問われた亜由美ではなく、繭花の方。 繭花はその間一度も私の方は見ず、あえて背を向けるよう体勢を変えた。 「それじゃあ、これからはもう、亜由美が持ってた方が良いね。」 そう言って、繭花はケースをバケツの中にぽとんと落とした。 カチリという金属音がして、亜由美は魚でも捉えたかのような顔で中を覗き込んだ。 繭花の声が震えていた。 ゴンドラが頂上へ到着する前に花火は始まった。 最初に大きいのが一発。 次に小さいのが連続して数発。 パラパラチリチリ、何かが焦げ千切れたような、歯にひっかかる音がここまで聞こえた。 「綺麗だね。」 繭花が蚊の鳴くような声で亜由美に話しかける。 観覧車が気を利かせて照明を落としたので、花火の光は中まで届いた。 私の前に並んで座るふたりは、完全に黒い影となっていた。 「特等席、取り損ねちゃったね。亜由美、テレビで見る花火は好きだったもんね。 今度はちゃんと日にち調べて、もっと近くで見よう。」 抱くようにして亜由美の肩に置いてあった手は次第に降下し、腕になって、手を繋ぐ形になって、指が一本ずつ離れていった。 そして人影は完全にふたつに分離した。 私は懐かしい気持ちでそれを眺めていた。 卵に似ているのだ。 鯉子と私が生まれてくる前の、まだたったひとつだったときの卵である。 強くなるということ。 私は何かぼんやりした雲のような、でも水滴が手に付くのはわかるような、そんなほのかな手応えを感じた。 こういうことだったのだ。 子供はいつまでも子供なわけではない。 知っている。 しかし、大人だっていつまでも大人なわけではない。 子供に戻っていくのだ。 赤ん坊時代、もしくは生まれる前の時代。 全てが自分と等しいに近く、全てが自分の思い通りに動いた夢のような時代。 全てが揃っていた桃源郷。 でも、私は帰らない。 帰らないよ。 そしていよいよ、ゴンドラは頂上にさしかかる。 |
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