水 中 散 策

八:バイバイ鯉子



1
家に寄っていかないのかと尋ねると、繭花は首を振った。
「ここで帰るよ。鯉子も無事見つかったことだし。
亜由美も、絵日記の宿題があるんだ。」
パジャマはまた来たときのために置いといて。
まだ赤みのとれていない目をして繭花は言った。
「『一生のお願い』って言ったの、忘れないでよ。」
今ならまだ終電に間に合う。

繭花は亜由美の手をひいて帰っていった。
そして私は鯉子とふたり、ひたすらまでに寂しい遊園地に残された。

閉園を告げる曲が心を喰っていく。
残っていた客も自家用車で来ている家族がほとんどで、最終バスは鯉子と私のたったふたりを乗せるとすぐに発車した。
この遊園地がなくなったら、このバスも廃棄されるのだろうか。
それとも、車体を塗り替えてどこか別の街を走ることになるのか。
閉園メロディがだんだんと薄くなっていき、バスに贈る子守歌のように聞こえた。  

小さな鯉子は実に良くしゃべった。
朝出たときの曇り空が嘘のようで、午後には気温が三十六度まで上がったとか。
今まで聞かなかったアブラゼミがここでは怖いほど鳴いていたとか。
今日が花火の日でなければ、昼間だって並ばずに観覧車に乗れたのに。
お昼に食べたハンバーガーが不味かったこと。
自動販売機のジュースが売り切れだったこと。  

あどけない表情で、鯉子はまるで最後に発熱する乾電池のように、息つく暇もなく話した。
ちょうど子供が一日はしゃいで疲れ、半分微熱に冒されたような顔をして。
広い夜のバスの中には声がよく響いた。
私は半分遠くを見て、半分眠くなって、残りのわずかな意識で遠い昔の、たった一週間前の鯉子を見た。

「私さ、医者になろうかと思うんだ。」
私とは違うブレザーの制服の鯉子は言う。
「死ぬんじゃなかったの。」
何てお馬鹿な私。
躊躇することなく聞いた。
「うん、もちろん。いつか、生まれ変わったらの話。」

夢見る鯉子は、もしかしたら私よりもずっと子供だったのかもしれない。
子供に戻るずっと前から。

「ノストラダムスのとき、あったじゃない。
死んでも地球の時計はそこで止まって、ビデオの一時停止みたく、元通りの命が始まるって。
それで、大王に支配されない地球にまた生まれるの。」

何でも良くできた鯉子。
いつも比べられてはちょっと悔しかった。
だけどそんな鯉子は、もしかしたら今までのずっとの間、ずっとずっと子供のままだったのかもしれない。
本当は私なんかよりもずっと幼くて、夢を見たままで生きてきてしまったのかもしれない。

「風船、飛んだ、風船、飛んだ。」
小さい鯉子はまだ熱にうなされ、隣で飛び跳ねる。
「アイアンマン!」

疲れが出たのか、シートに腰を落とすと同時に黙りこんでしまった。
そしてそれっきり、糸が切れたように、ことりと何もしゃべらなくなった。  



行きのバス内を満たしていた水が、今になって溢れ出した。
窓のわずかな隙間、ドアの閉まるゴムの間をくぐり抜け、肌に張り付く羊水が外へ押し出されていく。  

隣を見ると、鯉子が分解されていた。
小さな破片になると水に溶け、窓から塩水のように外へ出る。
乾いた空気に触れたメルト鯉子は再結晶を始め、白い足から順に構築されていった。
私も窓を開けて外へ出た。  

月夜を浴びた鯉子が闇に浮かぶ。
足から背中、頭へ、そして最後は指先。
徐々に形を戻していく鯉子の姿はまだ不安定で、陽炎のようにゆらゆらと揺れた。
服も体の一部となって、私にはまるで踊っているかのように見える。
長い黒髪は今は真っ白に、むしろ半透明に見えるほどに光を通し、隠れた顔は神秘的だった。

一度溶解し、再結晶した鯉子は一点の不純物もないオブジェだった。
踊りなびく鯉子の影が、私の足下を飲み込んでいる。
非の打ち所がなかった。
完璧だった。
この場に立つのに相応しいオブジェだ。
今、鯉子の中身は空洞で、きっと何もなかった。
向こうが透けて見えるほどに、骨も内臓も何も入っていなかった。  

かねがね繭花が言っていた。
水性絵の具なら水で洗い流す。
油絵の具ならナイフで削り落とす。
色を重ねていくのが美しいのではない。
本当に美しいのは盛り込んでいく全盛期ではなくて、ひとつひとつ削ぎ落としていって何が残るのかを傍観している、末期状態。

骨のかさをなくしていく。
脳からは情報が消えていく。
本当に必要なものと、そうでないもの。
必要なものなど、実は一握りもない。  



縮図を見た。  

鯉子が美しい。


 



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