水 中 散 策

八:バイバイ鯉子



2
家に着くとまず鯉子をベッドに寝かせ、部屋をざっと見てまわった。
今日もゴミ出しを忘れたせいで、キッチンにはカップメンの空容器がうず高く積まれている。
「ここの窓開けたまま行っちゃったんだ。不用心だなぁ。」

テーブルの上には「おかえり」のメモが置いたままになっていた。
それを丸めてゴミ箱へ放った。
思い出したように、もう一枚のメモもポケットから取りだした。
「こいこ、かえります」。
それもくしゃくしゃにし、一緒にゴミ箱へ捨てた。

鯉子は寝息を立てることもなく、ベッドでじっとしている。
さっきからずっとこの調子だ。
瞬きすることすら忘れ、天井を見つめている。

「鯉子。」
私はベッドの端に座って、隣で呼びかけた。
「こないだビデオ借りたままだったでしょ。返却日今日だったよね。」
相変わらず鯉子は何も言わない。
「見ようか、今。見ないと返せないもんね。ね、つけるよ。」

レンタルショップの黄色い袋の中から、プラスチックケースに入ったビデオを取り出す。
鯉子の退屈しのぎにと借りてきたのだ。
繭花達が来てくれたおかげで見る機会もなく、しまったままだった。
タイトルはもちろん、鯉子の好きなアイアンマン。

「明日の開店時間までに返せばいいんだよね。早く見ちゃわないと。
あそこの店、返却遅れると三百円取られるんだよ。」
部屋の電気を付けるのが面倒で、テレビの明かりを頼りにビデオをデッキに入れた。
「鯉子。」
私は呼びかける。
「私、普段はこんなしゃべらないし、独り言だって言わないんだよ。」  

アニメのオープニングが始まった。
「アイアンマン ぼくの名前 ゆうきとつよさが つまってる」
相変わらずの、あのメロディが流れてきた。
鯉子は以前のように手を叩いて飛び跳ねなかった。  

はしゃぎ疲れた鯉子は、それを境にまた少し、子供に戻った。
今はしゃべることすら知らない赤ん坊だ。
もう口をきかない鯉子はただ目をカッと開き、仰向けに寝たまま自分の手を見つめていた。
たまに少し動かしては、指を口に入れようとしてみたり、やめてみたり。
私が試しに手を出すと、鯉子は面白がって掴んだ。  

もう口をきかない鯉子は、私の手を強く握って離さなかった。
その手は私とちょうど同じ大きさで、やたらと熱く、やたらと力強かった。
目はらんらんと輝き、私の目を昆虫のように覗き込んでいる。
赤ん坊と同じだった。  

手をほどこうとはしなかった。
ちょっとでも視線をそらせば、興味をなくした鯉子は眠ってしまう。
そう思ったのだ。
そうすれば、何もかもが終わってしまう。

「うれしいんだ 今なら伝えられるよ 生きる意味 戦う意味」
私の内側で声がほとばしる。  



最近、自分で眠る瞬間がわかるようになった。
あの瞬間は、結構好き。
頭の上の方から削るようにして持っていかれ、最後に唇の感覚だけが残る。
何か言ってみようとしてもだるくて、結局あきらめてしまう。
その唇が内側から上に引っ張られるようにして動かなくなったとき、ああこれで何もわからなくなるんだと、一瞬だけ思う。
そして自分は消えてなくなる。  

死ぬ瞬間も、これと同じような感覚なのだろうか。
思っていたより静かで、誰も抗えない。
もしも死神がいるのなら枕元に立って連れていくのではなく、内側にそっと舞い降りてくるのだと思う。
その瞬間は音もなく色もなく、きっととても安らか。



「鯉子はやっぱり馬鹿だよ。私と変わんない。」  
恐怖の根元ならここに、イチランセイソウセイジにある。
結局私達はお互い、二人共、自分が鯉子であるか魚子であるかさえわからない赤ん坊だったのだ。  

鯉子の手がぽとりと剥がれ落ちた。
私は自由の身になるとベッドを離れ、すぐ後ろの窓に寄りかかった。
白っぽいカーテンを握り、開けたり閉めたりを繰り返す。
次第にてのひらが汗ばんでくるのがわかった。
カチッという小さな音がして、時計が零時を告げる。

「ハッピーバースデー鯉子。」



私は外で動いている影に誘われるようにして、窓から庭へ出た。  


 



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