水 中 散 策 八:バイバイ鯉子 |
||
3 | ||
庭に、驚くほど小さくなったあの巨エイがいた。 体長は二メートルもない。今は仲間もいない。 ただ一匹だけ、庭にぽつんと取り残されたようにしている。 「あんた、鮎水はどうしたの。」 しゃべらないエイが、答えるはずもなかった。 でも私は今ここに彼が、居るべくしていることを知っていた。 「私、新宿の寝顔が見たい。」 巨エイが、頷いたのか違うのか、よくわからない仕草を見せた。 そして、ゆっくりと低空飛行を始めた。 私も歩いて後を追う。 裸足だった。 パジャマだった。 構わない。 どうせエイすら人には見えていないし、彼の前では新宿だって眠るのだ。 私は、ただのキチガイで良い。 空が心なしか白んできた。 夏の夜明けは早い。 エイの飛行速度が上がっていった。 私も遅れまいとして走る。 畑だらけの道を抜けていく。 スモッグが蝕む街を離れていく。 当たりは一面畑、キャベツ、キャベツ、時々ナスとピーマン。 走って、徐々に離陸していく巨エイの背中に飛び乗った。 新宿まで連れていって。 眠れる新宿の森まで。 巨エイの背中はヌルヌルしていなく、冷たくもなく、全身が毛で覆われているかのようにふかふかと温かかった。 「私のエイとらないで」と鮎水が泣きついてくるのではないかと、ちょっとひやひやした。 しかし彼女の姿は見えない。 ここは鮎水の特等席だった。 エイの首と思わしき箇所に手を回し、顔をうずめて思う。 私がここにいること。 鮎水がここにいないこと。 「お前、ご主人なくして、困ってうちに来たの。」 そんなはずはなかった。 彼だって所詮は私の妄想の産物。鮎水と等しく、私の意識がくじけた時点で消えるはずだった。 何の未練があるのだと。 まだ、私は目を覚ましてはいけないのだと。 線路に沿って飛んだ。 高度が上がっていく。 巨エイは電車と同じ速さで、十分後の新宿を目指した。 新宿という街が眠るわけがなかった。 あり得なかった。 しかしそれでも、巨エイが見せた新宿はひっそりと闇を落とし、風の音しかしない夢見る街だった。 人ひとり、ネオンサインひとつない。 大都会もノイローゼ気味なのだろう。 何というファンタスティック。 誰も知らない裸の、偽物の新宿を私は見たのだ。 巨エイは静かに降り立った。 いつも通っていた道に、今は裸足で立つ。 もしもノストラダムスが来たら。 無機物を何一つ壊さず、命だけを奪っていったなら。 私が今見ているのは、居もしない大王に滅ぼされた新宿だ。 あんなにまで近かった「死」。 幼い頃怯えていた、あの悪夢の続きの新宿なのだ。 人類は滅亡し、続きの命を待っている。 空白の時代が誰かの心から消えきれず、ここに存在していた。 いつもの陸橋の階段をのぼる。 手すりにかけたてのひらが感じ取ったのは、いつもより少し冷たいだけの相変わらずの金属。 錆びた感触。 足が速まった。 一段抜かしで跳ねるようにして駆け上がる。 誰もいない新宿を独占したかった。 橋の中央。 真下に広い道路を見下ろして、はっと息をつく。 眼下に広がるは無人の新宿。 人間の匂いはどこにも感じられない。 凶器じみた言葉で遊ぶ子供達も、よどんだ目で橋の根本をうろつく老人もいない。 この間違った世界を見下ろしながら、何故か正しい新宿に思いを馳せた。 母の姿を見た気がした。 私の錯覚ではない。 鯉子が重ねたのだ、私とこの街を。 どちらとも赤ん坊にすぎない。 鯉子は怯えた。 巨エイは私を気遣ってか、離れず隣にいてくれた。 私も甘えて肩をかり、寄りかかる。 柔らかい毛がソファのように私を包む。 「鯉子、医者になるんだって。うん、合ってるかも。 鯉子ならなれるかもしれない。人を外側から救う人に。 ……私は、何になるんだろう。」 そもそも、エイに耳などあっただろうか。 あっても、果たして人の言葉が通じるのだろうか。 そんなはずもない。 今夜の私は今まで、そしてこれから一生分まとめたくらいにおしゃべりで、独り言が多かった。 誰よりも、自分に聞かせてあげたかった。 「私、鯉子に教えてあげないと。私はもう鯉子じゃないんだよって。 鯉子はまだ何も知らない赤ちゃんだもの。」 鯉子と私。一卵性双生児。 死んだのは誰?夢を見ているのはどっち? 鯉子はもう、以前のような上の方に生きている存在ではなくなっていた。 鯉子は頭が良い。何でもできる。 私はきっと一生、何をやったって鯉子には勝てない。 そう思うのも変わらない。 しかし、今私の脳裏に浮かぶのはいつもの勝ち誇った顔の鯉子ではなく、あの予言の日のような、泣きそうな眉をした幼い鯉子だった。 「なくなっちゃった。鯉子。私、半分になっちゃった。」 自分以外にありえない自分の影を、どこまで求めるつもりだったのだろう。 助けてほしかった。 眠りに落ちて誰も来ない、この街で。 誰かに、助けを求めたかった。 体の半分を失っていく感覚。 本当はそんなのは嘘なのだ。 元からふたつに分かれていたものを、数えたらふたつだった、と気付いただけのことだ。 鮎水を呼び戻したかった。 側に鯉子の模型を置いておきたかった。 でも誰も来ない。 街は死んだように眠る。 |
||
← → |
||
水中散策TOP / MUSEUM TOP / INDEX |