水 中 散 策

八:バイバイ鯉子



4
そっと、陸橋の手すりの上に立った。
「危ないよ」と止める人もいない。
奇妙な目つきで見る人もいない。
せすじを伸ばした。
眼下に、本当に眼下に、あの見慣れた道路が広がる。

車のない道がこんなにも広かったこと。
両腕を広げれば視界の全てが切り取れた。
新宿の半分、私が立っているこの場所から、向いている方面の全部。
それが今私の手中にある。
歓喜のあまり膝が震えた。

地球を征服すると言った大王は、きっとこんな景色を夢見たのだろう。
でもその夢は叶わず、地球は私の手に落ちた。

私は足を滑らせなかった。
だけどきっとこの瞬間も、世界のどこかでは誰かが思いもよらず足を滑らせ、取り返しのつかないことになっただろう。
私達はどうやったってこの先、矛盾だらけのこの街で、不条理な死の影に怯えて生きていくのだ。
私が今いる場所は、鯉子が捨てた街。
もう新宿には私しかいない。

遠くの方から何かが流れてきた。
水だった。
向こうに雨雲が見える。
真っ黒で鉛のような雲だ。
あの下では豪雨が降っているのだろう。
水は流れ、いつしか何もない道路を川へと変えた。

押し流されていく新宿。
砂でできた城は根本から崩れて水に溶けていった。
そして川はますますかさを増やしていく。
水が何もかもを飲み込んでいく。

「鯉子。」  
鉛雲が少し動いた。
ビルの裏側が白んでいるのが見える。

私は一度両手で目を覆い、暗闇になれた頃に離した。
両腕で囲まれた領域の中に、私の新宿がすっぽりと収まっていた。
そして水に崩されていくのを確認すると、大きく息を吸い込んだ。

「バイバイ鯉子。」  

そして手すりから飛び降りると、さっきとは反対側の階段へ向かった。
おいでエイ、お前の家だよ。
そう言って、振り返りもせずに階段を駆け下りた。  

階段が伸びていく。
私に下らせまいとしているようだった。
一段一段に鮮やかな色が映り込んでは消えていった。
そして私はその度に、あの日からの言い表せないもどかしさを耳の奥に思い出していた。

どうしてこの心臓は、こんなにも早く脈打つのだろう。
どうして、どうして、私達のだけ。
こんなに急いで、どこへ行こうというのだろう。  

左足で踏み切って飛び降りた。
ザブンと潜る。
ずるずると水中に引き込まれていった。
擦り切れそうだった心臓の音が、すぅっと引いていく。
流れなどなかった。
ただ、包み込むようなあの生温かい水が、私の手足を連れていった。  

頭から落ちた私は、逆さまに沈んでいく状態で水面の方を見た。
プールで見たのと同じ、あのキラキラと美しい水面がそこにはあった。
足下には崩れたビルの頭が行儀良く並んでいる。
すっかり大きくなった巨エイが視界を横切った。

これだったのか。
プールの底に沈む新宿。

私は無性に嬉しくなって、逆さの状態のまま足を前後に動かした。
そこは確かに陸地であり、床の感触が私の歩みを進める。
私はしっかりと足で底を掴み、踏みしめた。
水中、まだ、夢の中。



溺れるようにして飛び込んできた鯉子を吐き出し、一人で歩く。  

水中散策。
私はそう呼んだ。  





私の見えないところで、鯉子がそっと目を閉じたのがわかった。
右手を私の手の形に半開きにしたまま、かくんと首を落とし、深い眠りについた。

深い深い息継ぎと、私と同じ形の鼓動が聞こえる。
 


 



水中散策TOP
/ MUSEUM TOP / INDEX