水 中 散 策 八:バイバイ鯉子 |
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そっと、陸橋の手すりの上に立った。 「危ないよ」と止める人もいない。 奇妙な目つきで見る人もいない。 せすじを伸ばした。 眼下に、本当に眼下に、あの見慣れた道路が広がる。 車のない道がこんなにも広かったこと。 両腕を広げれば視界の全てが切り取れた。 新宿の半分、私が立っているこの場所から、向いている方面の全部。 それが今私の手中にある。 歓喜のあまり膝が震えた。 地球を征服すると言った大王は、きっとこんな景色を夢見たのだろう。 でもその夢は叶わず、地球は私の手に落ちた。 私は足を滑らせなかった。 だけどきっとこの瞬間も、世界のどこかでは誰かが思いもよらず足を滑らせ、取り返しのつかないことになっただろう。 私達はどうやったってこの先、矛盾だらけのこの街で、不条理な死の影に怯えて生きていくのだ。 私が今いる場所は、鯉子が捨てた街。 もう新宿には私しかいない。 遠くの方から何かが流れてきた。 水だった。 向こうに雨雲が見える。 真っ黒で鉛のような雲だ。 あの下では豪雨が降っているのだろう。 水は流れ、いつしか何もない道路を川へと変えた。 押し流されていく新宿。 砂でできた城は根本から崩れて水に溶けていった。 そして川はますますかさを増やしていく。 水が何もかもを飲み込んでいく。 「鯉子。」 鉛雲が少し動いた。 ビルの裏側が白んでいるのが見える。 私は一度両手で目を覆い、暗闇になれた頃に離した。 両腕で囲まれた領域の中に、私の新宿がすっぽりと収まっていた。 そして水に崩されていくのを確認すると、大きく息を吸い込んだ。 「バイバイ鯉子。」 そして手すりから飛び降りると、さっきとは反対側の階段へ向かった。 おいでエイ、お前の家だよ。 そう言って、振り返りもせずに階段を駆け下りた。 階段が伸びていく。 私に下らせまいとしているようだった。 一段一段に鮮やかな色が映り込んでは消えていった。 そして私はその度に、あの日からの言い表せないもどかしさを耳の奥に思い出していた。 どうしてこの心臓は、こんなにも早く脈打つのだろう。 どうして、どうして、私達のだけ。 こんなに急いで、どこへ行こうというのだろう。 左足で踏み切って飛び降りた。 ザブンと潜る。 ずるずると水中に引き込まれていった。 擦り切れそうだった心臓の音が、すぅっと引いていく。 流れなどなかった。 ただ、包み込むようなあの生温かい水が、私の手足を連れていった。 頭から落ちた私は、逆さまに沈んでいく状態で水面の方を見た。 プールで見たのと同じ、あのキラキラと美しい水面がそこにはあった。 足下には崩れたビルの頭が行儀良く並んでいる。 すっかり大きくなった巨エイが視界を横切った。 これだったのか。 プールの底に沈む新宿。 私は無性に嬉しくなって、逆さの状態のまま足を前後に動かした。 そこは確かに陸地であり、床の感触が私の歩みを進める。 私はしっかりと足で底を掴み、踏みしめた。 水中、まだ、夢の中。 溺れるようにして飛び込んできた鯉子を吐き出し、一人で歩く。 水中散策。 私はそう呼んだ。 私の見えないところで、鯉子がそっと目を閉じたのがわかった。 右手を私の手の形に半開きにしたまま、かくんと首を落とし、深い眠りについた。 深い深い息継ぎと、私と同じ形の鼓動が聞こえる。 |
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