水 中 散 策

九:あんよはおじょうず



1
額が痛くて目が覚めた。
気が付くとうつぶせの状態で床に寝ていた。
近くにあった鏡を手探りで引き寄せる。
大丈夫、コブにはなっていない。

横を見ると、ベッドはもぬけの殻だった。
蒲団は綺麗に整えられ、誰かが寝ていたような形跡すらない。
鯉子は体温ごとごっそり消えていた。  

しばらくベッドに腰掛け、誰もいなくなった部屋を見渡した。
そして部屋から出ると、部屋のひとつひとつをじゅんぐり見回した。

鯉子がいない以外は、全くもって元のままだった。
テーブル脇のゴミ箱から、くしゃくしゃに丸められた紙を拾い上げる。
「こいこ、かえります」のクレヨンの文字があった。
他の部屋も、何も変わった様子はない。
何かを持ち出した様子も、何かをいじった様子も。鯉子BOXさえ、元のままの場所にあった。  

鯉子の部屋に一歩足を踏み入れたとき、壁にかかった制服に目がついた。
全国でも有名な名門校。
赤いチェックのスカートと紺色のブレザーは、私にだって憧れだった。
あの日の姿のまま、裾に少し泥のはねた痕跡を残して、そこに佇んでいた。  

見つかったら怒られるだろうか、という不安が一瞬よぎった。
誰もいないことを今更ながら確認して、私は鯉子の制服を壁から取った。
両手に持って自分の部屋に持ち込む。
鏡の前に立った。
制服を胸の前に当てる。
なんだ、私が着ても結構似合うじゃないか。
当たり前だ。
同じ体型、同じ顔なのだ。  

ブレザーの裏地はつるつるしていて、触るとひやっとした。
袖を通したとき、何とも言えない清々しい感触がした。
サイズはぴったりだった。
鏡の前で一回ターンしてみる。
後ろを向いて、肩越しに鏡を覗き込んでみる。
鏡の中の偽鯉子も同じ動きをした。

この制服に似合わない、派手な黄色い袋にビデオをつっこむと、それだけを掴んで家を出た。  





カタンッ  

静かな商店街に音が響く。
まだ日の出前だ。

「レンタルCD・ビデオ」と大きく書かれた看板の下に立つ。
返却ボックスは黄色い袋ごと、喉を鳴らして飲み込んだ。
間に合った。
三百円クリアッ。
私は降りたままのシャッターの前で、大きく伸びをした。

空は夢の続きの色をしていた。
もうだいぶ明るくなっている。
間もなく太陽がのぼって夜が明ける。  

他に特にすることもなかった。
家に帰っても一人きり。
鯉子はいない。
宿題は、もう半ば投げやりだった。
着いたかどうか繭花に電話してみようか。
いや、どうせ寝ている。
迷惑なだけだ。

そうだ、朝ごはんがまだだった。
卵を切らしてたんだ。
買いに行かなきゃ。
こんな時間にスーパーが開いているはずもなく、私は踏切の向こうのコンビニまで行くことにした。  



おばけ踏切、と呼ばれていた。
「開かずの踏切」の逆である。
いつ閉まっているのかわからないくらい、馬鹿みたいに口を開けたままでいる。
通る電車は一本だけ。
新宿まで繋いでいく生命線。
たった十分で人類の英知へ。
でも、ここはまだおばけ踏切。  

しかし今日は違った。
私が潜ろうとするとカンカンという音が商店街中に響き、遮断機が降り始めたのだ。
踏切だから当然なのだが。
UFOでも眺めるかのような目つきで、徐々に下がってくるバァを見ていた。
あじけない電子音がする。
赤い目玉が薄暗闇に、目まぐるしく瞬きをする。
遮断機が降りきったそのとき、誰かが私の右手を握った。
しわしわの感触で、顔を見なくても誰だかわかった。  

目の前を電車が通っていく。
「さっちゃんはね、とーっても、物知りなのよ。」
さっちゃんはしゃべり始める。
どうして今。

「今日は、さっちゃんのだーいすきなお話を、みんなに紹介します。パチパチパチ。」
しかしさっちゃんは完全に自分のペースで、一人でオハナシしては一人で頷き、私ではない誰かに向かって一心に語りかけていた。

「むかしむかし、一人の旅人が山を越える途中で小さな村に通りかかりました。
旅の疲れで体をこわしていた旅人は、しばらくその村に泊めてもらうことにしました。早速ボロの空き家を見つけると、荷物を持ち込んで勝手に使い始めました。
しかし、空き家だと思ったその家には、実は一人の女の子が住んでいたのです。」  


 



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