水 中 散 策

九:あんよはおじょうず



2
女の子は両親の帰りを待っていました。
お留守番の嫌いな女の子は、部屋の隅に隠れるようにして待ちます。
外からは子供達の楽しそうな声。
女の子だって本当は、お外で遊びたかったのです。
でも家を空けるわけにはいかないので、両親が帰ってくるのをじっと待っていました。
小さな女の子はさらに小さくなり、数を数えて待ちます。



「ひとーつ。ふたーつ。みーっつ。」  
私の隣で、さっちゃんは黄色い車体が通り過ぎるまでの時間を数える。
電車の通る音に掻き消されながらも、その小さな声ははっきりと聞き取れた。
外から拾った音ではない。
まるで自分の内から聞こえてくるかのような声だった。  



女の子は数えました。
しかし、いくつ数えても帰ってきません。
心配になって泣き出しました。

替わりに留守番をしてあげるから、外で遊んできなさい。
旅人は言いました。
そして女の子が届かなかった窓の鍵を開けてあげました。

女の子はとても喜んで、私もまぜてと、窓から外へ飛び出しました。
そしてその瞬間、光の泡になって消えてしまいました。
女の子はきんぽうげの花畑を飛び越え、遙か遠い海のロンドン橋をも飛び越し、お空へのぼっていきました。  

旅人が後で聞いた話です。
女の子は昔死んだ、その家の子供でした。
自分が死んだことすら知らない魂を、村のみんなは哀れんであの家に閉じこめたのです。
しかし本当は、誰かが来て鍵を開けてくれるのを、女の子はじっと待っていました。
旅人は村の人達と一緒に、女の子のお墓を作ってあげました。



話し終えて満足すると、さっちゃんは私の手を握ったまま、踏切の方へ近づこうとした。
「駄目だよさっちゃん、危ないよ。」
手を引いて元の位置まで戻した。
「電車が行ってからね。」
そう、赤ん坊に対するように声を掛けた。

何だかよくわからないものが喉元まで込み上げてきて、腹が熱くなった。
電車が通り過ぎるのがやたらと遅い。
一体何百メートルある車体なのだ。
私はその間も、一度もさっちゃんの方を向かなかった。
それが余計にてのひらの温度を増した。

こうしてあげたかったのだ、本当は。

さっちゃんの手に、まだ温もりがあった。
しっかりと手を握り返し、指に指を絡ませる。

長かった電車が通り過ぎ、踏切が開いた。
「足下段差だからね。」
そう言って一歩出ると踏み外したような感覚がし、さっちゃんは蒸発していた。





「鮎水!鮎水!いるんでしょ。来て!今来て!」
半狂乱になってそう叫ぶと、目の端に人影が映った。
線路の先、さっきまで電車が通っていたところに、鮎水は立っていた。

「鮎水。」  

鮎水はもう、すっかり大きくなっていた。
背丈は私と全く変わらない。
むしろ私よりも大人びた顔立ち。
長い黒髪。
横に掻き分けた長い前髪。
鯉子にそっくりだった。
むしろ、鯉子だった。
鯉子が居た。

「鮎水。やっぱまだ、いたんじゃない。すっかり大きくなって。」
鮎水はにこりともせず、何も話そうとはせず、ただだんまりとしていた。  

私は鮎水が何かをぶら下げているのに気付いた。
コンビニの名前が印刷してある、白いビニル袋だ。
中からちらりと見えたのは、白い球が詰まったパック。
「これ買ったの。買い物も、できるようになったんだ。お金も払えたんだ。」
あのときの繭花のようなことを繰り返して言った。

大きくなったね。
大きくなってくれた。

私はただそう繰り返して、袋を掴んで離さなかった。
手が震えていた。
鮎水は何も言わず、そんな私をただじっと見た。  

カンカンと、また遮断機が鳴った。
私は顔を上げると鮎水に目配せし、勢いにまかせて家まで走った。  

朝が焼けてくる。
この線路の先と、電車の終点を知っている。
新宿という未来都市だ。
でも、ここはまだ、おばけ踏切。  


 



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